yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

エネルギーレベルが高くなかったのが残念『通し狂言  菊一座令和仇討』@国立劇場 1月6日

チラシの表と裏をアップしておく。

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いつもの菊五郎劇団とちょっと違った感じがしたのは私の思い過ごしだろうか。だって、この作品の基は四世南北なんですよ。それが退屈な芝居になっていた。南北作品をそのまま2時間あまりに収めるのは無理。ということで、「かなり短縮し、わかりやすいように組み替えた」というのが実情かもしれない。とはいえ、いつもの国立劇場文芸部のあの矜持が感じられなかったのが残念。ひょっとして(想定)観客に合わせた?

たしかにこの日の観客を見るに、ほとんどが歌舞伎初めての高齢者。あまりにも過激な舞台には引いてしまうかもしれない。どんよりとした雰囲気が座席全体に漂っていたのは事実。でもそれを覆して欲しかった。ちまちまとイヤホンガイドを必死に聴いたり、チラシの裏をくまなく確認するような無粋な真似(失礼!)をする人を対象とするのではなく、「これが分からなければ来るな!」と、切ってしまうだけの矜持を示して欲しかった。歌舞伎とは本来そういうものでしょ?

お勉強するつもりで来ている高齢者が多かった。しかもそのほとんどが男!高齢の男性。能の観客も男性高齢者が多いけれど、彼らの多くは謡いやお囃子の稽古をしているか、能に強い関心を持っている人であることが多い。一方、この日の国立劇場の男性高齢者はまったく違った層。古典芸能を「勉強」しようとしてきている人たち。とにかく無粋(過激でごめんなさい)。まあ、それでも関西の男の高齢者よりは、はるかに「マシ」ではあるんですけどね。こちらまで「加齢臭」が染み付いてしまう感じに、辟易してしまった。3階席だったのだけれど、お隣の人の加齢臭には参った。 

何にもましてショックだったのが、菊之助のあまりにものエネルギー量の低さ。昨年の『ナウシカ』の影響?骨折までしたんですものね。仕方ないかもしれない。でもこれは南北ですよ、宮崎駿なんて目じゃない大作家ですよ。こちらにもっと魂を入れ込んで欲しかった!ずっと彼を見てきて、今回のあまりにものlow profileは許せない。こんな実力ではないことは知っているので。「どうしたの、菊之助?」って、ずっと呟いていた。まるで初心者のよう、そう、二十歳の菊之助のようだった。 

父の菊五郎は年々足元が覚束なくなっている。あとどれくらい持つんだろう。また音羽屋を一方で支える松緑にも、進歩が感じられない。依然として治らない滑舌の悪さは、専門家の指導を仰ぐべきでは?もっといえば、殺陣での動きがあまりにも鈍。歌舞伎は新国劇や大衆演劇と違ってかなり様式化された殺陣。それでも彼のキレの悪さはやはり問題。研鑽を積んでください。この日の夜に見た劇団荒城での殺陣とのあまりにものギャプに唖然。劇団荒城の役者さんたちの方が、歌舞伎役者よりもはるかに上だと、認識させられた。菊五郎から引導を渡すべきでは?年齢的にあとがないのが辛いところ。

良かったのはやはり梅枝と(尾上)右近の二人の女方。可愛く、コケテッシュ、でもきちんと古典の型を踏襲している。あっぱれです。彼ら二人を見るだけでも、劇場に足を運んだ意味はあると思った。 

時蔵はもちろん別格の格の高さ。また、坂東楽善の、彦三郎、亀蔵がしっかりと脇を固めていた。一番の功労者。安心してみていることができた。

異優の萬次郎、そしてその子息の竹松も良かった。この二人が澤瀉屋の舞台以外でも、外さないものであることが確認できた。 

もう一つよかったこと。それは音羽屋の子役が出なかったこと。菊之助のご子息はいいとしても、その姉の子供を出す意味がわからない。まあ、もっと時間が経てば、自ずとその結果を確認することができるように思うのですが。

明日は浅草歌舞伎を見て、羽田から帰る。東京滞在中、思う存分「劇団荒城」を堪能できたことに感謝。エネルギーを充填していただいた。ガンバルゾーって、想いを新たにすることができた。荒城真吾座長に大感謝。やっぱりあなたほどかっこいい役者はいませんよ、よぉ〜日本一の色男!そして、彼が率いる劇団荒城に感謝!