yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

蘭太郎さんの狂四郎があまりにもハマリ役『蘭太郎版 あがぺー』in 「劇団荒城 1月公演」@篠原演芸場 1月4日夜の部

またまた出ました「父殺し」のテーマ。勘太郎さん作だという。ご自身で一度演じて、今回は弟の蘭太郎さんに主人公を委ねた。もともと蘭太郎さんを想定して書いた脚本だとか。確かに、蘭太郎さんの方がこの狂四郎にニンが近い。勘太郎さんは役の芯に深く、鋭く入り込むタイプ。対する蘭太郎さんはもっとdetachmentが効いている。もっと醒めている。だから、この芝居の最後が生きてくるのだと思う。それを想定してこの芝居を書いた勘太郎さん。すごい!真吾座長とは違ったアプローチで心の深淵を探ろうとする脚本家だし、演出家でもある。

タネ本はおそらく柴田錬三郎の『眠狂四郎』。これ、中学生の時にハマって全巻読破している(肝心のエロティックな描写はよくわからなかった?)。柴錬の狂四郎の父は外国人宣教師、母は旗本の娘という設定だった。それをこの『あがぺー』では父は大名、母が外国人の設定。種元は忘れましょうということだろう。

隠れキリシタンの描写はとてもリアルだった。豊臣秀吉から徳川にいたるキリスト教弾圧の背景がしっかりと描かれていた。そもそも歴史的背景が主になっている芝居ではないので、さほど気にすることはないのですが。

主要テーマは「血」。劇団荒城はこのテーマに入り込むことが多いように思う。ホント、今、この時点でここまで「血」にこだわるとは!それが新鮮であり、またかなり重くもある。しかも真吾座長のみならずまだ二十代の息子の勘太郎さん、蘭太郎さんまでが、そこにこだわり続けるとは!私はそれこそが「劇団荒城」が「劇団荒城」たる所以であるような気がする。この「血」を捨象してしまえば、私が私である意味がないですものね。この重さを常に意識しつつ、演じる、生きるという覚悟を示すのは、並大抵のことではないだろう。すごい、荒城!

私が最も打たれたのは、「裏切った」父を殺してしまった狂四郎が、ただ呆然と花道を退場するシーンだった。狂四郎=蘭太郎さんが素晴らしかった。「想い入れがある?ない?」、そのどちらでもない曖昧な境地を、ただ無心に歩いて行く蘭太郎さんが、ただ愛おしかった。

今回確認できたのは勘太郎さんと蘭太郎さんの恐ろしいまでの進境ぶり。お二人はキャラがおよそ違う。だから「得意」とする役柄も当然異なる。簡単には超えられないすごいお父上を持ち、しかも才能ある兄弟として、互いにしのぎを削らなければならない。甘え、ナアナアの中にどっぷりとつかって安住している人たちがほとんどの大衆演劇界。この緊張感は他の劇団ではありえない構図である。劇団荒城の役者さんたち、信じられないほどの量の研鑽をしていると思う。それが成果として、舞台に出ているのが確認できるから。

蘭太郎さんは兄の勘太郎さんとは違ったタイプ。それを自覚して、役づくりをしているのだろう。一方、勘太郎さんは弟の特徴をよくつかみ、それを生かした脚本を書いたのがこの『あがぺー』なのだろう。そもそもは勘太郎さん自身が演じた狂四郎役を、今回は弟の蘭太郎さんに譲ったことからもそれはわかる。

昨年浅草木馬館で見た『哀しみのクロス』より、キリスト教の教条が正確に捉えられていたように感じた(スミマセン、上から目線で)。私自身、中・高6年間にわたる(プロテスタント系)ミッション・スクールの出身で、どっぷりとキリスト教に「漬かった」中高時代を過ごしてしまった。だから、こちら関係にはちょっとアレルギー気味なのかもしれない。今回の『あがぺー』は安心してみていることができた。まあ、隠れキリシタンの基督教はカトリックですものね。