yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

天の試練を乗り越える使命のひと、羽生結弦選手

「天」というよりも「贔屓の引き倒しだった審判」としたいけれど、そこは我慢。不公平な採点を跳ね返し、むしろ乗り越えてゆく決意を新たにしたのが、「日刊スポーツ」のインタビュー記事(2019年12月8日20時40分)に載っていた。改めて感動。非難していないのにも感動。さすが羽生結弦さんです。

いかにもと思える「羽生節」が以下のところ。引用させていただく。

質問:演技を振り返って

答え: (略)何で今回コーチが来られなかったんだろうとか。どうしてショートでミスしてしまったんだろうとか。あんまりそういう運命主義者ではないんですけど僕は。でも何かしらの意味がそこにあるんだろうなって考えて。もしそこに意味があるんだとしたら、ストッパーがいない今だからこそ、自分だけで決められる今だからこそここでやってもいいんじゃないかなって自分を許してしまって。結果として跳べなかったですけど、あの練習はかなりいろんな覚悟を決めた。

この絶望的な状況(一位との差が12点あったこと)の中で、ここで何かを残さないといけないって使命感がすごくあったんですね。どっちにしろあの構成で完璧なノーミスをすることは多分不可能に近かったと思うんですよ。多分10%もなかったと思うんですよ確率的に。それに懸けるんだったら、それに懸けて勝てないのだったら、だったらここでちゃんとやるべきことやろうよって。その中で思ったのは、自分の中でやるべきことはここで4ルッツをしっかり跳びきることだったし、ここでアクセルを完成させたいって気持ちでした。

質問:ちゃんとしたいスケートと4回転アクセルの両立は厳しいと思うが

答え:今回の自分の演技は完全に一生懸命なだけ。ただひたすらジャンプ大会みたいな感じが自分の中ですごくあった。競技としてどうなのって話になった時に、やっぱりそれはフィギュアスケートじゃなくてもできるじゃんっていう気持ちはあるんですよね。だから自分にとっては4回転アクセル、4回転半ていうのは王様のジャンプだと思います。それをやった上でジャンプだけじゃなくて、フィギュアスケーターとしてちゃんと完成させられるものにしたいって気持ちは強いです。ただ前提としてそれがかなり難しいことは自分でもかなり分かっています。

「使命感」は、見る人への演者としての使命感だと思う。今度のファイナルの採点を見ていて、「なにか変?」と思った人は多数いると思う。羽生選手も(非難でなく)言及しているけれど、まるでジャンプ大会になっていた。高難度ジャンプを5回も入れるというのは、あまりにも競技によりすぎ。芸術性はほぼ無視ということなのだろう。ネイサン・チェン選手の演技は演技というよりジャンプをつなげただけのものだった。間に入る動作におよそ芸術性は感じられなかった。特に腕の動きがひどかった。なんのメッセージも伝わってこなかった。いくら高難度のジャンプを連続して決めても、この演技をあなたは何度も見たいですか?少なくとも私は「No!」です。美しくも、楽しくもなく、なによりも心に響かないから。

羽生選手の言葉が含蓄に富んでいる。「(4回転5本は)王様のジャンプだと思います。それをやった上でジャンプだけじゃなくて、フィギュアスケーターとしてちゃんと完成させられるものにしたいって気持ちは強いです」と。

芸術性では前例のない文字通りスケート史上ただひとりの羽生結弦さんに、ここまで言わせるのが悔しい。果たしてジャンプ大会になってしまったフィギュアに熱狂する人がいるのでしょうか?まあ、私はごめんです。