yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

浅井通昭師のシテの気品が匂い立った能『錦木』 in 「京都観世会九月例会」@京都観世会館 9月22日

この日のチラシの表裏をアップしておく。演者、解説が裏に載っている。

f:id:yoshiepen:20190924132047j:plain

f:id:yoshiepen:20190924132104j:plain

浅井通昭師がシテを務められる曲はこれが初めて。そういえば仕舞も見ていない。まずその佇まいの端正さにうたれた。舞い、所作の的確と気品高さに感動した。詞章が恐ろしいほどグイグイと迫ってきた。とくに後場で男が彼の想いに応えることのなかった女を恨むところ。切々とした情の吐露に、思わず涙が出た。

さすが世阿弥と唸る詞章。歌集、物語等の「古典」から、一体いくつの歌や詞がこの曲の中に組み込まれているのか。歌の中のことば、句の一つ一つが、連想が連想を呼ぶ。あふれんばかりの豊かな詩情に満ち溢れているのに、過剰な感じはなくどこまでも静謐。男の様も激情に駆られてというより、静かに訴える風情。これにやられてしまった。

かの有名な「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」から始まり、『伊勢物語』からの詞、それに古今集からの歌等々。華麗な詩句の織物が織られてゆく。私のように素養のないものは置いてきぼりを喰らいつつも、織り込まれることばの響きの美しさに心を射抜かれてしまう。単に衒学を狙ったものではなく、豊かな詩情を放出させるために、ギリギリのところで選ばれた歌であり詞だからだろう。世阿弥の天才を思った。

その天才を描出するのがメディアム(媒介者)である演者だろう。よほどの力量がないと、詞章負けしてしまうに違いない。それを浅井通昭師は極めて抑制した、それでも裡に並ならない激情が秘められたものであるのがわかる所作と動き、そして謡で、みごとに具現化されていた。すごい力量の方だと判った。

浅井通昭師のシテと「張り合う」形になった橋本忠樹師のツレ(女)も、そこまで強い想いを寄せられる女性の美しさ、たおやかさを演じ、見事だった。素敵なカップル(?)が最後は想いを遂げられることができ、しみじみとよかった。 

チラシにも載っていたのだけれど、この日の演者方は以下である。

シテ  女     浅井通昭

ツレ  男     橋本忠樹

ワキ  旅僧    福王知登

    従僧    中村宜成

    従僧    喜多雅人

アイ  里人    山口耕道

 

大鼓        山本哲也

小鼓        林大和

笛         左鴻泰弘

太鼓        井上敬介

 

後見        橋本光史 井上裕久

 

地謡        樹下千慧 梅田嘉宏 深野貴彦 林宗一郎

          浦部幸裕 味方玄  吉浪嘉晃 浦田保親