yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

河村浩太郎師シテの能『龍田』 in 「第三回林定期能」@京都観世会館9月14日

お若い河村浩太郎師がシテなので、面でお顔は見えないものの、どこか若々しさが漂っていてハイライト部の舞も軽やかだった。以下に「林定期能」からチラシの表裏をお借りする。

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河村晴道師の解説にあったように、さすが禅竹、極めてビジュアル度の高い景色が繰り広げられる。といっても、実際の舞台ではシテのきらびやかな衣装と冠、それに赤い屋根の作り物が目に映えるだけで、それ以外視覚に訴えるものはない。でもそこに無いものが舞台で見えてくるのは、ひたすら詞章の言葉の織りなす綾のおかげ。

一昨年、「井上同門会」で浦部幸裕師シテでみて、記事にしているのだけれど、そこでもこの「存在しないものを偲ぶ美学」について言及していた。

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こういう美学が『新古今和歌集』の美学だと論じたのが三島由紀夫だったのを思い出した。

すでに龍田川には霜が張っている。その白い霜の上に降りかかる遅い紅葉。この色彩のコントラストが鮮やかである。この詞章の元になっている歌を手元にある『謡曲百番』に辿ってみた。以下のような解説になっていた。歌集は「新古今」ではなく『古今和歌集』の方ではあったけれど。

龍田明神のご神体、龍田姫は「秋を守り」「紅葉を手向け」とする神である。本曲はこうした理解を背景に、「中絶ゆる」という言葉をキーワードとして前掲の古今集歌「龍田川もみじ乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」と「龍田川もみじ葉閉ずる薄氷渡らばそれも中や絶えなん」を中心に歌問答を展開させ、紅(くれない)の「紅葉の艶」に、「氷の艶」を重ねて、散り飛ぶ紅葉を幣と手向ける龍田姫の姿と夜神楽の神秘を描く。 

僧と巫女(龍田姫)との「論争」は、この問答が下敷きになっていると知って舞台を見ると感興もひとしおである。

「幣」といえば、菅原道真公のあまりにも有名な歌「この度は幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」の歌も詠み込まれている。残念ながら私が辿れるのはここまでで、詞章の中に織り込まれた紅葉を題材とする華麗な言葉の数々、そしてその本歌をも辿れないのが口惜しい。

「紅葉賛美」から「夜神楽」へ、最後は「お決まり」の神への祝詞となって終わるのであるけれど、その間にシテが舞う舞も美しい。このお囃子が一時耳について離れないことがあったっけ。味方玄師の社中会で、社中の方が舞囃子で舞ったが強く印象に残っていた。

この強い印象を受けたお囃子、今回囃子を先導する笛は武市学師だった。とても力強く、亡くなられた師匠の藤田六郎兵衛師を思い出させる音色だった。

それでは演者の方々一覧を以下に。

シテ 巫女、後に龍田明神  河村浩太郎

ワキ 旅僧         小林努

ワキツレ 随行僧      有松遼一

              原 陸

アイ   所の者      増田浩紀

 

大鼓   河村 大

小鼓   林吉兵衛

太鼓   井上敬介

笛    武市 学

 

後見   味方團  浦田保浩

 

地謡   河村紀仁  佐竹圓修  河村和貴  松野浩行

     田茂井廣道 河村和重  林宗一郎  河村晴道