yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎監修の『通し狂言 東海道四谷怪談』@京都南座 9月2日初日

通しとはいえ3時間という限られた時間内に収めるのに、大筋が分かる場のみに集約されていた。最後の三幕目と大詰のみ、脚本に忠実だったようで、それもあってか、この二幕が他の幕を圧倒していた。他の幕はあらすじをなぞっただけの感じ。以下に公演チラシをお借りする。

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もっとも、元の「忠臣蔵外伝」としての『四谷怪談』は、様々な筋が絡み合い、もつれあっているので、ほとんど予備知識のない客にそのまま提供するわけには行かないだろう。だから、最初の二幕は大まかなストーリー解説にあてられたのだとおもう。だから、質としては最後の二幕にかなり劣っていたように感じた。第一、いくら解説してもらっても、そう簡単に「わかりました!」と言える代物ではない。そこをどう客に「理解」してもらうのか、監修の玉三郎は苦心したのだと思う。幕間に亀蔵が出てきて、話の背景を語るというのも、そういう苦肉の策の一つだったのだろう。ただ、不完全燃焼感は残った。人物それぞれが複雑な背景を持ち、それらが絡み合うことで複層的な世界を描出している。その背景を時間内に示すのは不可能である。

いっそのこと序幕は省くか、もしくは映像等で、人物相関図と重点的あらすじを解説する形を採った方がよかったのでは。余力を二幕目に充てた方が、お岩の「髪梳きの場」がもっと凄惨に立ち上がってきたのではないだろうか。事実、お岩の幽霊が舞台狭しと翔びかう三幕目はそれで成功していた。観客にはすでに背景が理解できていたから。

幕構成と配役は以下。

序幕     浅草観音額堂の場

       按摩宅悦内の場

       浅草観音裏地蔵前の場

       同    田圃の場

二幕目    雑司ヶ谷四ッ谷町伊右衛門浪宅の場

       伊藤喜兵衛内の場

       元の伊右衛門浪宅の場

三幕目    砂村隠亡掘の場

大詰     蛇山庵室の場

 

民谷伊右衛門
お岩/佐藤与茂七/小仏小平
直助権兵衛

お岩妹お袖/小平女房お花
乳母おまき
舞台番/伊藤喜兵衛
後家お弓

愛之助
七之助
中車

壱太郎
歌女之丞
片岡亀蔵
萬次郎

 

最もよくできていたのは大詰の「蛇山庵室の場」。ここではお岩役の七之助が宙乗りと早替りで魅せる。客は「おおっ!」とか「うわーっ!」とかの歓声をあげながら完全に術中にはまっていた。三階席にも(おそらく代役の)お岩さんの幽霊が通り抜けていった。それが次の瞬間には舞台で与茂七になっている七之助を発見。ここでも「すごい!」、「どうやって!」と言った声がとびかっていた。この魅せ場で、他の場を補っていた感じがした。 

三幕目の「砂村隠亡掘の場」は、本来ならもっとおぞましくも恐ろしい場のはずが、ちょっと肩透かし。萬次郎のあの独特の「濃さ」が活かしきれていなかった。歌女之丞も然り。配役としてこれ以上はないほどのお二人。ただ、その背景となった経緯を省いてしまっているので(それは致し方ないことだったのではあるけれど)、「因果応報」からくる悲惨が伝わらない。その延長で、戸板返しのあの陰惨な場も迫力なし。この場、どうしても十八世勘三郎のあの凄まじいまでのえぐい舞台を思い出してしまうんですよね。

三役をこなした七之助が素晴らしい。人物の演じ分けという点でだけではなく、「ダブル」、「トリプル」であることで、必然的に浮き上がる複層的な人格が否応なくこちらに伝わってくるから。下手な役者がやるとグダグダになるところ、七之助は見事に演じ分け、かつ人物の複層を表現できていた。あっぱれとしか言いようがない。さぞ大変だっただろう。まだ初日だったけれど、千秋楽までもつのかしらと、いらない心配までしてしまった。

でも、そう心配しているわけではない。串田和美演出の2016年のコクーン歌舞伎での『四谷怪談』でも、また、同じく串田演出の『切られの与三』ででも、圧巻の演技を魅せてくれたから。とにかく凄まじいまでの気魄だった。それがこの『四谷怪談』を見ている最中にも彼の姿に重なって見えてしまった。

直助を演じた中車は、喜劇を演じる時よりもエネルギーレベルを落としている感じ。ロープロファイルが彼らしくなくて、元気なさげ見えてしまう。もっと自己主張して欲しかった。 

それは伊右衛門を演じた愛之助にもいえる。エネルギーレベルをかなり上げないと、七之助と渡り合うようには見えない。食われてしまっていた。そういう演出なのかもしれないけれど、もっと工夫の余地があるのでは。何よりも「色悪」的な魅力が発揮されていなかった。

壱太郎は予想通り力演。声が素晴らしい。古典歌舞伎の声。同じ上方の愛之助の声が、古典的なところから外れて今ひとつなのと対照的。声は非常に重要だと改めて感じた。

例の一世風靡した串田演出のコクーン版と比べると、過激度はぐんと少なめ。串田の『四谷怪談』が、その場面が、その役者たちが重なってしまう。一度味わった凄みは、記憶から消えることはない。だからそれをのり超えるのは不可能。違った形でアプローチするしかない。あとに続く人にとっては、試練です。それがたとえ玉三郎でも。