yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

橋本光史師シテの能『安達原 黒頭』in 「井上定期能」@京都観世会館 8月24日

前場からすでにドラマチック。糸車を繰る時の老女の穏やかさが、「閨を見るな!」と言い置く時には尋常ならない厳しさになる。この穏と激との対比を、橋本光史師はくっきりと際立たされて、秀逸だった。

後場は今までに見た『安達原』中、最もヴィジュアルだった。前場から打って変わって、後場そのものが激しい場面に転換することが、視覚に訴える形で示されていた。何しろ「黒頭」に赤い衣装なんですからね。鑑賞の一助として、以下に別の演者さんの写真をアップしておく。こういうのです。

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後場、鬼女に変貌した橋本光史の動きはあくまでも機敏。それを受け、対抗するのがワキ(山伏)の原大師と原陸師。こちらも機敏。調伏しようと必死で数珠を鳴らす。激しい。この両者の激しさのせめぎ合いが見もの。歌舞伎でも何度か『安達原』の舞踊を見ているけれど、能の方が舞台で展開するエネルギーの塊が大きいように感じる。歌舞伎だとエネルギーは開放する形で示されるのに、能の場合は逆なんですよね。中へ、中へと押し込める形で示される。歌舞伎だと終了後には解放感があるのに、能ではどこか不完全燃焼のような重さが、舞台にも、観客席にも立ち込める。でもどこか心地よい「不完全燃焼」。余韻といった方がいいのかもしれない。この余韻を残して立ち去る橋本光史は、諦観が全身に漂っていた。「もうこんな世とはおさらばだ!」なんていう想いが、全身から溢れ出ていた。

能力を演じられた茂山忠三郎さんがすばらしかった。狂言方の本領発揮!なんとも軽い、そして無責任な能力を演じてあまりにもハマっておられた。鬼女に最も「近い(近似)」なのは、案外この能力なんではないかと、思わせられた。こちらも対比が、ただただお見事。

当日の演者一覧と「演目解説」を以下に。

シテ 里女・鬼女    橋本光史

 

ワキ 山伏       原 大

ワキツレ山伏      原 陸

アイ 能力       茂山忠三郎

 

大鼓          石井保彦

小鼓          林大和

太鼓          井上敬介

笛           杉市和

 

後見          寺澤幸祐  井上裕久

 

地謡          寺澤拓海 浦田親良 深田貴彦 吉田篤史

            佐伯紀久子 吉浪壽晃 橋本雅夫 浅井道昭

 

演目解説

紀州熊野の山伏祐慶一行が、諸国行脚の途中、奥州安達原に着き、一軒家に宿を乞う。女主人は、一度は断るが、是非にといわれ招き入れる。山伏が見馴れぬ枠桛輪に興味を持つので、女は糸尽しの唄を謡いながら糸を繰る様を見せる。

夜更けに、女は もてなしの焚火をするために、山へ木を取りに行くが、その際、帰るまで閨の内を見るなと言い置く。あまりにくどく閨の内を見てはならぬと言って出かけたのを、かえって不審に思った能力が、山伏の目を盗んで閨をのぞいてしまう。そこには人の死骸が山と積んであり、一行は驚いて逃げ出す。山からの帰り道、のぞかれたことを知った女は本性を現し、鬼女となって、約束を破ったことを恨み襲いかかる。山伏の必死の祈りに、鬼女は祈り伏せられ、恨みの声を残して消え失せる。
 この曲は、人間の宿業の悲しさを描いた傑作といわれ、鬼女となるのは、約束を破たことへの失望と怒りによるものである。人は皆、孤独の秘密を持つものであり、また人の秘密をのぞき見たいというのも人間の持つ本性であり、そういった人間の本性 を巧みに描いた名曲と言える。「黒頭」の小書(特殊演出)の節は、後シテが黒頭となり、 より感情の激しさを表わす。本曲は、「道成寺」「葵上」と共に〈三鬼女〉と呼ばれる。