yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

表現者・芸術家 羽生結弦の作品「マスカレード Masquerade」in 「ファンタジー・オン・アイス2019 幕張」@幕張メッセ 5月27日

 

『オペラ座の怪人』の続編としての「マスカレード」

「『オペラ座の怪人』の続編として、より進化したものを演じたい」という羽生結弦選手の想いから出てきた新プログラムだという。そこには「フィギュアスケーター羽生結弦」の「歴史」が、そして「物語」が刻まれていた。

マスカレード [Masquerade] とは、「本来の姿を隠して、何者か別の者になる」という意味である。本来の姿を隠して、つまり仮面をつけている現況から、仮面を外し素顔の自分、つまり本来の自身に「成る」物語を紡いで見せたといえるかもしれない。4分あまりの間に。フィギュアから離れて純然たる芸術作品として完結したパフォーマンスでもあった。この演技をみて、想いは千々に乱れるけれど、あえて、気持ちを引き締めて、パフォーマンスの持つ意味を考えてみたい。三つ挙げられると思う。

物語に仮託した意思

1.「物語」に仮託した意思

今までは他者の物語を生きていた」というのが「仮面」という語に表象されている。つまり誰かの物語(マスカレード)を演じてきていた。でも、これからは自身の物語を演じるのだという並々ならない意思が、冒頭のマスクを剥がし取ろうとする演技に表れている。歌詞をここに書き出してみる。

<前奏>                 

運命の仮面かぶり 素顔 忘れてく   

夢見て 怪しくも 華麗に演じて    

淋しさも 悲しみも 誰にも見えない

精霊の森 闇の色 彷徨うように

血の涙 銀色に光る          

仮面に突き刺さる       

マスカレード 儚く      

孤独のマスカレード     

 

<間奏>

 

戻りたい ありのままでいい 素顔の自分に 

マスカレード 残酷に乱れて

マスカレード 無常の償い マスカレード

マスカレード 甦る勇気の真実

 

「マスカレード」(誰かの物語)ではなく、自身の「生」(物語)を生きるという決意。その決意の下の「生」は、なまなましい生になるだろう。苦悩を描き出すものになるだろう。苦悩を綴った「物語」になるかもしれない。でもそれが現実であり、等身大の「生」でもある。なおかつそこには、ナマの息遣いが感じられるはず。「生」の物語が立ち上がってくるはず。

 

前半、「マスカレード 儚く 孤独のマスカレード」のところで、氷面に左手をつき、右手を高くあげるのは、解放されたいという内的な衝動と同時に、内に籠る孤独感をも表しているのだろう。次に、脚を大きく広げて跳ぶのは、解放への強い希求を示したものかもしれない。

 

後半で「戻りたい 素顔の自分に」という箇所でイナバウアーが入り、さらにあの「ファントム」の演技で彼のトレードマークになったスケートのエッジを立てる所作が入る。さらに、大団円の「甦る勇気の真実」の後では、左手にはめていた白い手袋を脱ぎ捨てる。それまでの仮面を外すのだ。暴力的とでもいえるような強い動作で。白手袋はピエロを表しているから、「ピエロであることをやめる」という決意を示したことになる。

 

「羽生結弦」という芸術家は、今までにない表現者になったのだと感じた。この表現者は、スケーティングでもバレエでもダンスでも舞でもない「スケートという媒体を通して『物語』を紡ぐ」という新しい領野を拓いたのかもしれない。フィギュアスケートの新しいステージを開拓したともいえるだろう。スポーツではもはやない。肉体=身体そのものが、精神に点を刻み込む、そしてそれが物語を創り出す芸術作品としてのフィギュアスケートを。

西洋を纏った「日本」の表現者 

2.西洋を纏った「日本」の表現者として

そして次は、日本人が西洋発祥のフィギュアスケートを滑るという「マスカレード」性である。「マスカレード」性こそ、ここしばらくの彼の演技に色濃く出てきていたものである。彼が常々意識してきていたであろうことである。

となると「ファントム」というオペラ/ミュージカル作品(西洋歌劇)の続編として「マスカレード」を演じるということは、「ファントム」という西洋ものをもう一歩進めて、「日本もの」としてこれを舞ってみせるという意思表示になるのではないか。自身が被っていた「西洋」の仮面をとって。

他のスケーターたちは文化的差異には恐ろしく無頓着に見える。しかし、「芸術家羽生結弦」の感性では、それはありえない。否応なく文化的差異を意識させられてきたに違いない。今までに何度も論じてきたのではあるけれど、それは「西洋を纏った日本」の表現者となるということなのではないか。二つの文化の(陰陽の)単に接ぎ木となるのではなく、あくまでも日本人表現者として、独自の立ち位置を採るということのような気がする。

衣装が呼び覚ます連想

3.衣装が呼び覚ます連想

それを雄弁に語るのが衣装であると思う。これは私の勝手な想像、推測なので、笑っていただければいい。ただ、「マスカレード」の衣装を見たとき、興奮を抑えられなかった。能のアリュージョンの洪水だったから。

まず襟元、左前の打ち合わせは能衣装(着物)のもの。また、その色にも能を思わせるものが。上着の打ち合わせの下(右下)は暗く渋い紅紫色で、能の『二人静』の衣装の色である(この色は呼称も「二人静」)。上着の打ち合わせ上は、スパンコールが縁に散りばめられた黒色で、これ以上ないほどコンテンポラリー・スタイリッシュ。そこに能の衣装が被ってくることで、古典色が立ち上る。

私が興奮したのは、この「二人静」が『オペラ座の怪人』を介在させることで、様々なアリュージョンを呼び込んでくることだった。中森明菜に「二人静」という歌がある。これは映画『天河伝説殺人事件』のテーマソングだという。奈良・吉野の天河神社は、弁財天を祀る神社なのだけれど、この神社で舞われた能『道成寺』が「天河殺人」の舞台になっていた。『道成寺』の舞台途中で、鐘が落下、それで能楽師が亡くなるという設定。翻って『オペラ座の怪人』においても、シャンデリアが観客の上に落下する事件が起きる。鐘とシャンデリアの落下。あまりにも似ていると思いませんか。それともこれは突飛な連想でしょうか。こじつけに過ぎないでしょうか。このように、様々な連想が湧き上がってくるのが羽生結弦選手の衣装なのである。

芸術家としての羽生結弦

「ファンタジー・オン・アイス」は試合ではない。点数を気にすることなく思う存分自身を表現できる。そこにこそ、芸術の神、ミューズにその身を捧げた「芸術家羽生結弦」が輝ける場がある。もちろん試合においてもアーティストとしてのパフォーマンスで私たちを魅了してくれる。とはいえ、試合では、「何点獲得するか」が常に頭上にあって、彼を縛っている。観客もそれを常に意識させられる。その縛り(呪縛)から解き放たれ、自由にリンクを舞う姿はまさにミューズの申し子、それを見ている間は至福の境地にいることができる。この幸せ!「時よ止まれ!」と叫んでいる自分がいる。