yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

河村晴久師シテの能『羽衣』in 「学校教育に能を!公開収録」@京都観世会館 12月25日

一昨年にも同様のワークショップに参加させていただいた。教育教材用のDVD作成が主目的ということで、教育関係者は無料。それが申し訳ないほど、充実した企画だった。第一部が能『羽衣』鑑賞、第二部が、講演、ワークショップ「能舞台と教育現場とつなぐ」という構成になっていた。

能『羽衣』の演者は以下の方々。

シテ(天人)     河村晴久  

ワキ(漁夫 白龍)  有松遼一

ワキツレ(漁夫)   岡充  小林努
笛     森田保美 

小鼓    大倉源次郎 

大鼓    河村大 

太鼓    前川光範

 

後見    分林道治  河村浩太郎
地謡    観世鐵之丞  河村晴道  河村和重  吉浪壽晃

      味方團  田茂井廣道  河村和貴  河村和晃

以下に「銕仙会」の能楽事典からの概要を。

春のある日、漁師・白龍(ワキ)は三保浦で天人の羽衣を見つける。そこへ現れた持ち主の天女(シテ)は返してくれと言うが、白龍は衣を惜しみ、返すことを渋る。しかし天界へ帰ることの叶わぬ身を嘆く天女の姿に、白龍は“天人の舞楽”を舞うことを条件に衣を返し、天女は衣を身にまとって舞いはじめる。富士山を背に、緑美しい春の三保浦で舞を舞っていた天女であったが、やがて彼女は数々の宝を人間界にもたらすと、天界へ帰っていったのだった。

幕内から登場した後見が、舞台前面に置かれた松の作り物に羽衣をかけるところから、すでに舞台は始まっている。お囃子が登場楽を奏でる中、白龍と連れの漁夫が登場。三保の松原の春の景色を愛でながら、一声を謡う。ワキの登場として、美しいものの一つだと思う。有松師、そしてツレの岡充、小林努各師とも白皙の美貌で、面を着けないワキとしてはそれだけで見応えがある。声も朗らかで張りがある。若い漁夫にぴったり。 

幕内から声がかかる。「なう、その衣は此方のにて候。何しに召され候ぞ」と。シテの河村晴久師登場。この場面は、何度見ても(といってもまだ三度目だけど)ドラマティック。幕内から聞こえる声、続くシテ登場の流れに、緊張感があるから。 

河村師の『羽衣』は初めてだった。優雅な身体のはこびに、俗世の者ではない気品が漂う。そして、いかにも悲しげなさまが、迫ってくる。受けて立つ漁夫たちとの対峙、掛け合い(問答)で、緊張感がより高まる。最初のクライマックスである天人の嘆き、「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」から、白龍の「あら恥ずかしや」に繋がる場面も、劇的緊張感とその開放のサマが見事である。 

羽衣を舞台上で着る「もの着」のあとは、開放感溢れる朗らかな天人の舞になる。天人の舞にふさわしい華麗な地謡方が謡う詞章に、圧倒される。あの僧正遍照の歌、「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」が組み込まれている。

この後天人は、より華麗に二弾目の舞——序の舞、破の舞——を舞いつつ、春霞たなびく中、天上へと去ってゆく。後半の天女の舞は、ただ舞台を回っているだけなのに、なんとも美しい。天人の感謝の気持ちが身体から溢れ出るからだろう。好きな舞。

舞を完成させるのには、シテの技だけでなく、お囃子が同等に重要な役を果たしている。笛を森田保美師、小鼓を大倉源次郎師、大鼓を河村大師、そして太鼓を前川光範師という、これ以上望めないほどの最高の布陣。大倉源次郎師の小鼓は久しぶりだったので、あの軽やかでいて勁い音にうっとりした。前川光範師の太鼓は、私の中では最高峰。しっかりとしたバチさばきと高らかな掛け声に魅了されっぱなし。聴いている時のワクワク感が、舞台終了後も余韻として残った。