yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

喜多流の高林白牛口二師、古武士の佇まいで「孤塁を守る」@京都造形芸術大学 12月10日

残すところあと2回となった公開講座、京都造形芸大の「日本芸能史:能と狂言の世界」。一昨日の講義の主役が喜多流の高林白牛口二師だった。天野文雄氏が冠したタイトルがまさに、「孤塁を守る—喜多流高林白牛口二の80年」。司会の天野文雄氏、それに「高林師をぜひ招いて!」とおっしゃったコーディネーターの田口章子氏に感謝。

 京都に独自路線を貫く喜多流があるなんて、知らなかったことが恥ずかしい。(東京の)喜多流には、昨年11月、目黒の喜多能楽堂で塩津師の社中会にお邪魔している。私にはテイストがしっくりこない感じだった。大阪能楽養成会で喜多流の若手能楽師の謡・舞も見ているが、そちらもピンとこなかった。で、喜多流とはご縁がないと思っていたのだけれど、昨日の高林白牛口二師のお話と謡、仕舞を拝見して、考えが変わった。とくに高林白牛口二師のお話は感動的だった。白牛口二師は昭和10年生まれの現在83歳。お話も饒舌で理路整然、仕舞でも立ち上がるときに乱れがなかった。まさに古武士の風格だった。録画で拝見した喜多六平太師の仕舞を、彷彿させた。

「白牛口二」は「こうじ」と音読するそうである。その解説から入り、どういう経緯で京都で「孤塁を守る」ことになったのか、その歴史的背景まで、わかりやすく、しかも情熱的に話された。もっと時間があればと思った。

 高林家は「呪師猿楽」と言われた伊勢猿楽の出で、その後京都に移った。京都では堀池家が喜多流を統括していたが、継手がいなくなり、高林家が後を継いだとのこと。江戸末期には御所の警備(北面の武士)をされていたとか。白牛口二師のお父上、吟二師は十四世喜多六平太の元に内弟子に入られ、喜多実師とは内弟子仲間だったという。喜多実師は後藤家から後継者のなかった六平太師へ養子に入り(後藤得三師は弟)、十五世宗家元になった。同年輩の吟二師とはライバル同士だったらしい。このあたりの内輪のお話も、興味深かった。

このあと、ご子息の呻二師(昭和37年生)、お孫さんの昌司師(平成7年生)とご一緒に『葵上』の枕ノ談、そして『井筒』の終曲部を謡い、舞われた。白牛口二師が強調されたのは、ご自身の謡がお父上の吟二師のものだという点。吟二師は十四世六平太から直接習われたので、白牛口二師のものはまさに六平太のものということになる。東京バージョンを(二刀流の?)呻二師と昌司師が謡われ、それと並行してご自身の六平太バージョンを謡ってくださった。何回か前の講義の講師、井上裕久師が披露してくださった「京観世の謡」もそうだったけれど、伝承して行く中でその先は微妙に、あるいは大きく異なってくるのだということに、改めて瞠目している。

私の印象では、白牛口二師の謡の方が、ずっと音調が高く、明るめな感じがした。仕舞でも、流れ、所作共にどう違っているのかを、見せてくださった。なにしろこちらは初心者なので、細やかな違いははっきりとは判らなかったけれど、それでも白牛口二師の「こだわり」は理解できた。また六平太師のものを正しく継承しているという気概、矜持がひしひしと伝わってきた。

帰りに受付で配布された白牛口二師著『素牛の涎言集 七』も読ませていただいた。この小冊子ながら、白牛口二師の思想、それも80年の実践を踏まえた思想が凝縮され詰まった重い内容だった。世阿弥晩年の伝書と共振するところも多く、さすがだと思う。箱庭文化についての論考も面白かった。ネット等でも配信してくださればと、願っている。

目次一覧を以下に挙げておく。

1.(私説)謡の音楽論

2.伝統を継承して生きると云う事

3.能面の中から

4.世阿弥が能役者に遺したもの

5.老女物に取り組む

6.古伝書に曰く老女物の心得

7.謡の謡い方

8.「謡」は声楽である

9.箱庭文化と「能」今日の一曲独吟について

10. 今日の一曲独吟について

ネット検索をかけると以下の興味深いサイトに出くわした。白牛口二師の佇まいがいかなるものか、わかります。

高林白牛口二さんとの対話by 中島那奈子 – イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン