yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル@ザ・シンフォニーホール 12月2日

以前にブログ記事にもして、期待して出かけた演奏会だった。

この日の曲目は以下。

モーツァルト:アダージョ ロ短調 K.540
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
シューマン:交響的練習曲 op.13(遺作変奏付き)

「ABC Classic Guide」に載った公演情報もアップしておく。

奇才?超人?天才ピアニスト!ポゴレリッチ登場!
イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル

 2007年の公演以来、11年ぶりのザ・シンフォニーホール登場となるイーヴォ・ポゴレリッチ。1980年ショパン国際ピアノコンクールの際、彼が本選に進めなかった事に審査員マルタ・アルゲリッチが憤慨し「だって彼は天才よ!」と言い放ち審査員を辞退した、という逸話は今でも語り草となっています。ここ数年は、その奇才的演奏の爆発ぶりに賛否両論を巻き起こしていましたが、2014年のリサイタルでの鬼気迫る演奏は聴衆の心をつかみ、今また注目が集まっています。
 今回のプログラムは、モーツァルトが作曲したもののうちで最も深く苦しく、慰めのないものと言われる、唯一のロ短調曲「アダージョ K.540」。そして、リストがシューマンに献呈した大曲「ピアノ・ソナタ ロ短調」。後半には、シューマンのピアノ作品の中でも最高の名曲であり変奏曲の歴史においても画期的な位置を占める傑作「交響的練習曲op.13(遺作変奏付き)」をお贈りします。
 初演から歴史的に演奏者が培ってきた楽曲のイメージや概念を取り払い、改めてその曲と向き合う事で生み出される深い解釈による表現。加えて、彼が放つきらびやかで美しい高音と闇に響くような低音の重厚さ。ポゴレリッチに命を吹き込まれた音楽には、他にはない“脈動”がみなぎります。
 常に“今”奏でる最高の音楽を模索し続けるポゴレリッチ。彼の創り出す音世界にただ身を委ねてみてはいかがでしょうか。

午後3時開演だったので、2時40分に会場に入ったら、ポゴレリッチは普段の服装でゲネプロ中だった。その前屈姿勢にグレン・グールドを思い出してしまった。シューマンの冒頭部を確認していたよう。引っ込んで再登場した時は、きちんとタキシードで決めていた。

リストの「ピアノ・ソナタ ロ短調」には度肝を抜かれた。超絶技巧もなんのその、いともたやすく、過激に弾き込んでいた。そしてそれ以上だったのが、最後のシューマン。今までのシューマン曲のイメージが覆るほどの、「攻撃的な」演奏だった。しかも出だし部が「密やか」かつ繊細だったので、そのあとのアグレッシブなタッチに驚かされた。それも生半可なものではなく、同じ曲中の変化とは思いえないほどの強烈さ。私にとってシューマン演奏者といえばスヴャトスラフ・リヒテルなので、どうしてもその繊細な演奏と比べてしまう。

上の解説にある「歴史的に演奏者が培ってきた楽曲のイメージや概念を取り払い」というのは、確かにそう。今まで聴いてきたピアノ演奏者のものとはまるで違う演奏。曲の解釈が根本的に異なっているんだと思う。とにかく力で押してくる感じ。オクターブを優に超える大きな手が紡ぎ出す音の圧倒的強靭。それは一つのスタイルとして、「革命的」であるだろう。

ただ、ピアノに関しては自分が「保守的」なんだと思い知らされた。グイグイ力で押してくると、「こうじゃないよね」っていう齟齬感が湧き上がってしまう。「ここまで大きな音で押し切るってどうよ?」って、感じている。「ペダル、使いすぎじゃない?」とも。繊細、優美とは程遠い演奏。それは解釈の違いで、彼がそういう演奏が技術的にできないということではない。内発的な欲動に任せる演奏だという気がした。先日みたNHK の特番で演奏していた曲とは雰囲気が違った曲を選んでいたからかもしれない。あの時は哲学的な演奏に思えたのだけれど。多分、ポゴレリッチという演奏者は、その時々の心の裡を「正直に」出しているのだと思う。

普通、ピアニストはリサイタルでは「よそゆき」を装う。それを極力排しているのがポゴレリッチなのかもしれない。ある意味誠実なんだと思う。ただ、その誠実と観客の側の期待とが合致しないことも、多々起こりうるんじゃないだろうか。

最近クラッシックは芸文センターで聴くことが多く、数年ぶりのザ・シンフォニーホール。客席は半分しか埋まっていないのに、驚いた。芸文センターではほぼ満席のことが多かった。これじゃ招聘した音楽事務所の採算は取れていないはず。やはりポゴレリッチには毀誉褒貶がある?好き嫌いがこれほど分かれるピアニストもいないと思う。ショパン・コンクールで彼を支持したアルゲリッチは「好き」の側だったんでしょうね。