yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』[法界坊] in「吉例顔見世大歌舞伎」@歌舞伎座 11月9日夜の部

以下に「歌舞伎美人」から拝借した配役とみどころを。

奈河七五三助 作

石川耕士 補綴

 

序 幕 向島大七入口の場より
大喜利 隅田川渡しの場まで
浄瑠璃「双面水澤瀉」

 

<配役>

〈法界坊〉

聖天町法界坊       猿之助       

五百平          巳之助

おくみ          尾上右近

野分姫          種之助

手代要助         隼人

番頭長九郎        弘太郎

代官牛島大蔵       吉之丞

講中の比丘尼       寿猿

おらく          門之助

大阪屋源右衛門      團蔵

道具屋甚三        歌六

 

〈双面水澤瀉〉

法界坊の霊/野分姫の霊   猿之助

おくみ           右近

手代要助実は松若丸     隼人

渡し守おしづ        雀右衛門

 

<みどころ>

悪党ながらもどこか憎めない法界坊

 色と欲におぼれた聖天町の法界坊は、浅草龍泉寺の釣鐘建立の勧進をして歩き、集めた金を道楽や飲み食いに使ってしまう生臭坊主。永楽屋の娘おくみに恋慕していますが、おくみは手代の要助と恋仲なので、相手にされません。この要助はというと、実は京の公家吉田家の嫡男松若丸で、紛失した御家の重宝「鯉魚(りぎょ)の一軸(いちじく)」を探すために身をやつしています。許嫁の野分姫が奴五百平を供に江戸にやってくるなか、おくみの尽力でようやく一軸を取り戻す要助。しかし、法界坊の邪魔が入り、大事の一軸をすり替えられた挙げ句、間男の嫌疑をかけられてしまいます。その窮地を道具屋甚三が救いますが、苛立ちが収まらない法界坊は野分姫まで無理やり口説こうとして…。
 悪党ながら茶目っ気とユーモアのある法界坊。舞踊「双面」では、法界坊と野分姫の合体した霊を一人で演じ分けるのもみどころです。

DVD版ではあるものの串田和美演出のあの過激なヴァージョンを見ているので、この『法界坊』はあまりにも「当たり前 ordinary」という感じがした。串田ヴァージョンは元のホンを一旦解体、再構築している。それも、話をわかりやすく再構成したのではなく、誇張するところはより過剰にデフォルメしているので、元のものとはかなり違った様相で立ち上がっていた。

元の「法界坊」といっても、私が歌舞伎で見たのは平成6年(1994)の猿之助(現猿翁)のもののみ。もちろん澤瀉屋の型。それもはるか昔のことなので、印象にさほど残っていなくて、今回と比較できないのが残念。大衆演劇では「たつみ演劇BOX」のものを2回見ている。これは喜劇性をより強調したもので、優れて良かった。あの美形で上品なたつみ座長が、汚らしく卑猥な坊主になるんですから、それだけでもおかしさマックスです。

 ただ一つ比較できるものがあった。それは猿之助主演の『ワンピース』。今回の『法界坊』は『ワンピース続俤(ごにちのおもかげ)』といえるのでは?猿之助の「法界坊」は、以前の澤瀉屋型ともかなり違っている?どちらかというと、『ワンピース』的「破戒」を描いているように感じた。ワンピースの「お宝探し」に当たるのが、ここでは「鯉魚の一軸探し」。猿之助はこの「法界坊」を澤瀉屋型でやりますと宣言しているけれど、実のところは「ワンピース」を下敷きにしているのではと思った。申し訳程度に「澤瀉屋型宙乗り」が挿入されるのも、最後の「双面水澤瀉」の場で猿之助、右近、隼人の絡みも、まるで『ワンピース』。価値の転覆劇が演じられている感が強い。

『ワンピース』絡みでコミカル度の高い場面がいくつかあった。猿之助=法界坊の着ているもの、持っているものが、垢まみれで怖ろしく汚い。これは、おそらく他劇団とのの差別化、明確化の一つの形として示されている。従来の歌舞伎関係者にはない挑戦だった。 

猿之助が隼人に向かって、「自分でも『イイ男』って思ってんでしょ!きっとそのはず」と詰め寄るところはまさに『ワンピース』のノリ。また番頭役の弘太郎が右近に「けんけん云々」というところもおかしい。『ワンピース」を介しての親しさが表れている。弘太郎は着実に力をつけています。その他にもこの芝居が「ワンピース」絡みである「証拠」がいくつか。今回の『法界坊』は、構成員のほとんどが「ワンピース」出演者。猿之助にしてみれば、「ワンピース」そのままのメンバーでこの「法界坊」を舞台化したかったのだろう。実際、それが功を奏して、出来栄えは『ワンピース』よりもずっと優れた作品になっていた。(似非)ヒューマニズムに満ち満ちた「説教」がなかったのが、なんといっても良かった。元の『隅田川続俤』もイイ加減ずっこけているけれど、この猿之助版『法界坊』も、いくつかぶっ飛ぶ場面もあり、演出の工夫のあとが窺えた。