yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

右近と梅枝のイチャイチャぶりが可愛い『お江戸みやげ(おえどみやげ)』 in 「吉例顔見世大歌舞伎」@歌舞伎座 11月10日昼の部

久しぶりに見る右近の女方。彼(彼女)が阪東栄紫役の梅枝にデレデレ甘えるさまが「過激」だった!どこかぶっちぎれた感じ。かなりのハイ状態だったのでしょう。梅枝が「困ったナ」っていう感じでそれを受けているのがおかしい。右近は『ワンピース』の折には細身に見えたのだけれど、超細身の梅枝と並ぶと結構量感があり、「男・女」が逆転している感じもおかしい。栄紫がお辻と何かあったのではと嫉妬するところも、可愛くもおかしい。時蔵と又五郎の「カップル」もなかなかのものだけれど、それ以上にこの若カップルにワクワクさせられた。そういえばこの取り合わせ、3年前に歌舞伎座で観た『文七元結』の配役(お久を右近、文七を梅枝)と同じなんですよね。この組み合わせ、「女性上位」のところが最高です。以下に「歌舞伎美人」からの配役とみどころを。

川口松太郎 作

大場正昭 演出

<配役>

 

お辻
おゆう
阪東栄紫
お紺
鳶頭六三郎
市川紋吉
文字辰

時蔵
又五郎
梅枝
尾上右近
吉之丞
笑三郎 
東蔵

 

<みどころ>

ユーモアと哀歓に満ちた人情物語

 梅のほころぶ湯島天神にやってきた、結城紬の行商人が二人。倹約家のお辻は、金勘定にも大らかなおゆうから、江戸土産にと境内の宮地芝居に誘われると、人気役者の阪東栄紫に心奪われてしまいます。栄紫にはお紺という恋人がいますが、強欲な養母常磐津文字辰がお紺を妾奉公へ出そうとしていることを知って、初めて惚れた男のためにひと肌脱ぐと言い出すお辻。果たして、お辻にとってのお江戸みやげとは…。
 人情の機微を描き、数々の名作を残した川口松太郎の昭和36(1961)年初演の作品。性格の対照的なお辻とおゆうのやりとりが楽しい心温まる人情物語をお楽しみください。 

一昨年、歌舞伎座での『権三と助十』の演出も大場正昭氏。非常に手練れた演出で感心した。

このときは原作が岡本綺堂だったけれど、今回は川口松太郎。いずれも大衆文学の優れた書き手。これをこの歌舞伎座にあげるのは演出家冥利につきると想像される。出来栄えも予想通り素晴らしい。今回の『お江戸みやげ』も出色の出来栄え。

大衆文学の形をとりながら、鋭い文化批評にもなっているのは、さすが川口松太郎。深い洞察に満ちている。特に「中央 vs. 周縁」という対立の構図がさまざまな形態をとって表されているところがそう。常陸国から江戸へ結城紬を行商にやってきた二人連れの中年女。二人ともつれあいを亡くした寡婦で、自分たちが織った紬反物の行商によって一年の糧を稼いでいる。彼女たちが行き当たったのが、大きな芝居小屋で打たれている大芝居ではなく、神社などで小屋をかけて打たれる宮地芝居。ここにも中央と周縁の対比が明らかである。 

「江戸(都市)vs. 常陸国(周縁)」だけではなく、「大芝居 vs. 宮地芝居」、「(芝居見物)消費者 vs. (紬機織り)生産者」等がこの「中央 vs. 周縁」図式に当てはまる。その対立を超克するものとして、「人情」が使われているのがいかにも大衆文学。ただ、矛盾は矛盾のまま乗り越えられずに終わる。そこが安っぽいお涙頂戴でないところ。ハッピーエンドでない結末は、切なくも胸を打つ。

私がとくに惹かれるのは宮地芝居役者の阪東栄紫の境涯。以前は大芝居に出ていたという。今は江戸を離れ、上方道頓堀角座の引き抜きを受けようとしている。私がこの芝居を最初に見たのは「劇団悠」のものだった。お辻を松井悠さん、おゆうを高橋茂紀さん、栄紫を藤千之丞さんという配役。この時の藤千之丞さん、大芝居から外れてしまった役者の苦悩を描いて、秀逸だった。今回は、「大芝居の役者が宮地芝居の役者の苦悩を描ききれるか」という問題がどこか突き刺さってくる。いくら梅枝が上手くても。救われたのは、「相手」がお父上の時蔵だったところ。(真の)大役者である時蔵が演じるお辻に「抱きとめられて」、梅枝演じる阪東栄紫という役者も存在しうるという安堵感がした。ちょっと変な理屈ですが。 

その中で笑三郎の演じた市川紋吉という宮地芝居専門(?)役者のサマが、いかにも宮地芝居役者だという感じがして、思わず声をかけそうになった。おゆうのおごりの酒を口に運ぶ様に、役者の有りようがずっしりと顕れていて、切なかった。笑三郎は常に、どんな役を演じても感動させられる役者。でもとくにこの市川紋吉には感動した。