yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『森の石松』主催:逢春座・浅井劇団、共演:座KANSAI、助演:たつみ演劇BOX in 「のぼる會公演」@京橋羅い舞座 8月14日昼の部

つい先日恋川純劇団の『森の石松』を見たばかり。奇しくも?この合同公演も「閻魔堂最期」が中心になっていた。純座長のあの素晴らしい舞台の後だからそれよりは「落ちるだろう」と覚悟はしたものの、この舞台には心底失望した。

そもそも、「のぼる會公演」の意味を「誤解」していた。てっきり四座(たつみ演劇BOX、逢春座・浅井劇団、座KANSAIの「合同」であり、文字通り四座全てが一堂に会しての舞台と理解していた。当日いただいた公演一覧を見る限り、逢春座・浅井劇団、座KANSAIの(実質)二劇団が交互に主/副を担い、たつみ演劇BOXのみ単独で公演というのが実際の形。たつみ座長が全公演の芝居の統括をされると思っていたので、予想が外れてがっかりした。それも当日知ったので、がっかり度が高い。しかもたつみ座長はこの日は不在。

まあ、大衆演劇十八番の『森の石松』、この二劇団のそれを見るのは初めてだったので、開演前にはそれなりに期待はしていた。「閻魔堂の最期」から「大政と大前田英五郎との絡みがある次郎長の敵討ちの道中の場」、そして最後の「次郎長一家と都鳥一家の立廻り」というちょっと長めの構成だった。金沢じゅん座長は石松、次郎長を演じて、非常によかった。金沢つよし座長の大政も歌舞伎口調がとてもよかった。問題はその他の劇団員たち。数ばかり多くても煩いばかり。石松の敵討ちに向かうという緊張感が感じられなかった。テレテレ、タラタラしている印象。思わず、恋川劇団の座員さんたちや東映のゲストの方たちの醸し出していたあの緊張感と比べてしまった。

もっとも呆れたのは「石松最期」の悲劇のキモが全然わかっていなかったこと。この悲劇のキモは彼が次郎長との約束があるため、ドスを使えなかったことにあるのに、それへの言及はまったくなし。単に、「石松が都鳥一家に無残に討たれた」と座員の一人が述懐するのみ。「ばかは死ななきゃ治らない」の石松が律儀に自分との約束をばか正直に守ったが故に、都鳥に惨殺された。これを知った次郎長の無念。それが描けなければ、この芝居を立てる意味がない。二劇団の総座長は芝居全体の監督をしたはずなので、彼らの責任でもあるだろう。数を頼りに流れ作業でやっつけ芝居をしている感が拭えない。これじゃ客が再来することは期待できない。

 舞踊ショーでもがっかり。とくに逢春座・浅井劇団。同じような顔の人ばかり入れ代わり立ち代わり出てきても、曲の傾向が似ているので差別化できず。踊り自体もパッとせず。どんぐりの背比べ。それも低い方の。そうそう、いわゆる演歌を踊る(踊れる)若手がいなかった。個人的には演歌が趣味ではないけれど、大衆演劇のエッセンスを表現するには演歌は外せない。上手い人は演歌も新しい曲も両方踊れます。芝居の上手い人は踊りも上手い。これは定説。舞踊ショーも金沢じゅんさんのみ際立ってよかった。そういえば、ずいぶん前に浪速クラブで彼が叔父さんと共演した舞台(陰惨な悲劇、有名な芝居なのにタイトルを忘れました)がよかったことを、思い出した。それに比べると、もう一方の劇団は印象に残っていない。ちょうど2年前に浅井研二郎さんが亡くなられた直後の舞台を見てはいるのですけどね。

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分裂前の正研座も何度か見ている。どの舞台もがっかりの連続だった。ヘンに「民主的」というか、横並び的なんですよね。こういう人たちを擁しての19日の『夏祭浪花鑑』、通奏低音になっているあの虚無感を出せるかどうか。よほどきっちりと演出しないとダメだろう。