yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

義経の妄執が胸に迫る味方玄師の能『屋島 弓流 素働 那須与市語』in「テアトルノウ東京公演」@宝生能楽堂 5月12日

名を惜しむ義経の迷妄

前場の比較的穏やかなシテから、修羅と化した後場のシテへの変容のさまが凄まじい。それはシテ=義経の、修羅道に堕ちてもなお武士としての「名を惜しむ」自尊を表している。しかしその自尊ゆえに迷妄は募り、苦患はいや増すばかりの堂々巡り。結局はそれが晴れないままに、後シテは消えてゆく。救いはない。その姿を追った観客は、しばし呆然。時が止まったかのような静寂。舞台に人がいなくなるころ、やっと拍手が起きた。

私もしばし混乱した頭でそこに座っていた。シテ、味方玄師の修羅の凄みに打ちのめされた舞台だった。チラシをアップしておく。

f:id:yoshiepen:20180513105251j:plain

当日の演者一覧は以下。

前シテ 屋島の老漁師    味方玄
後シテ 源義経の幽霊    味方玄
ツレ 屋島の若い男     武田祥照
ワキ 旅の僧        宝生欣哉
ワキツレ 旅の僧      野口能弘 御厨誠吾
狂言 屋島の浦人     野村萬斎


大鼓    亀井広忠
小鼓    成田達志
笛     杉信太朗

後見    味方團  清水寛二

地謡    観世淳夫 梅田嘉宏 谷本健吾 武田友志
      角当直隆 観世喜正 片山九郎右衛門 分林道治

概要を「銕仙会」の「能楽事典」よりお借りする。

旅の僧(ワキ・ワキツレ)が讃岐国屋島浦を訪れると、浦の老漁師(前シテ)と出会う。老翁は、僧が都の人と知って快く宿を貸し、僧の求めに応じて昔の源平合戦の様子を物語る。その余りの詳しさに不審がる僧たちに、老翁は自らが源義経の霊であることを仄めかすと、姿を消すのであった。

その夜、僧の夢枕に義経の幽霊(後シテ)が現れる。義経は、身の危険を顧みずに海へ落とした弓を取り戻した過去を語り、名誉を惜しむ自らの信念を語る。そうする内、この地は修羅の巷へと変貌し、義経は死してなお続く戦いの日々を見せるのであった。

修羅と化した義経

私は本公演の事前講座に参加させていただいていて、その折に味方玄師が「弓拾い」の場面を演じられたのを見ている。その動きの激しさに圧倒されたのだけれど、義経の妄執の強さまではわからなかった。この公演をみて、動きのきれ、鋭さそのものが、義経の苦患を表していることがよくわかった。武者としての矜持の強さはそのまま妄執の激しさを示すことになる。それが後シテの苦悶の所作、表情に顕れていた。橋掛りまで行ったあと、舞台に戻って激しく動き回る。そして立ち止まって顔を少し上に向ける。その様がなんとも哀しい。しかし、同情ははねのけられ、はじきとばされる。修羅と化した義経は、猛然と幕内に消えてゆく。

最終場面で幕内に突進して行くさまも衝撃的ではあるけれど、それと同じくらい印象的なのがシテの後場での登場。前場でのどこか弱々しさのあった老翁から、後場の勇猛果敢な武士への「変身」。それが端的に顕れていたのが登場時の勢いのあるシテの登場である。スススッと橋掛りを進み、舞台でやっと立ち停まる。このさまに余すことなく義経の若々しい気概が溢れている。前場の「老」に対する後場の「若」。「若」はそのまま「美」でもある。いつものことではあるのだけれど、こういう対比の妙は能ならでのもの。でも、でもなんですよね。作者は決して彼を百パーセント美化(glorify)していないんですよね。それがまた能らしいところでもある。

赤く焼けただれた大月輪のインパク

当日いただいたプログラムに載っていた味方玄師のお父上、味方健師の解説が、そこのところを分析しておられて、素晴らしい。以下、その部分。

義経が弓矢執る家に生まれ、ここ屋島で名を挙げ、今亡き身になっても、名への執心に魂はなお迷妄して、屋島に却来することをいうのであるが、なによりも、引き潮の西の海に、赤く焼けただれた大月輪が沈もうとする、インパクトこの上なく強烈な戦場の基調背景を、私は特に評価したい。

演者ではやはりシテの味方玄師が圧巻だった。まるで義経が乗り移ったかのようだった。舞台に身体をつけて立ち上がる「バタン/スッ」の繰り返しをいとも易々と舞われた。シテツレの武田祥照師を見るのは多分初めてだったけれど、「老」を表象するシテに対して若いツレというのが自然体で描き出されていた。ワキの宝生欣哉師はやはり手堅い。下掛宝生の芸(話芸)の確かさを改めて確認した。那須与市譚を語るアイの萬斎師は、かなり目立っておられた。語尾がしゃがれ気味なのが気になった。

作者は世阿弥

健師のご指摘にもあったのだけれど、この『屋島』はやはり世阿弥作だろうと思う。月の使い方に世阿弥の『鵺』との共通点があるとのこと。それに加えて全体に漂う救いのない妄執とそれゆえの虚無感、悲しみが『鵺』のそれと共通しているような気がする。