yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『NINAGAW・マクベス』in 蜷川幸雄シアター2三回忌追悼企画@なんばパークスシネマ 4月12日

2015年9月、ウィリアム・シェイクスピア原作『マクベス』を蜷川が演出したシアターコクーンでの舞台の録画版。翻訳、小田島雄志。以下、主たるキャスト。

マクベス     市村正親
マクベス夫人   田中裕子   
バンクォー    橋本さとし  
マルコム     柳楽優弥
ダンカン     瑳川哲朗
マクダフ     吉田鋼太郎

「映画.com」から映画版への解説をアップしておく。

日本を代表する舞台演出家・蜷川幸雄の三回忌追悼企画として、数々の演出作から厳選した作品を映画館で上映する「蜷川幸雄シアター2」の第1弾。ウィリアム・シェイクスピアの名作悲劇を日本の安土桃山時代に置き換えて描いた「NINAGAWA・マクベス」を収録。荒野で3人の魔女と出会ったマクベスとバンクォー。魔女の予言によると、マクベスはコーダーの領主を経て国王に、一方バンクォーは本人ではなく子孫が国王になるという。マクベスからの手紙でその予言を知ったマクベス夫人は、王位への野望を遂げさせようと決意。やがてマクベスはダンカン王の暗殺に成功し王位に就くが、良心の呵責に苛まれおびえはじめる。不安と怒りに支配されたマクベスはさらなる残虐行為を重ね、夫人は罪悪感のあまり錯乱状態に陥っていく。

「joseishi.net」にアップされた「蘇る『マクベス』! 世界の二ナガワ再び!!」が面白い。特に蜷川自身の「解説」が。

『NINAGAWA・マクベス』はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』をもとに、セリフや人物設定はそのままに、時代を日本の安土桃山時代に移し替えたもの。巨大な仏壇の中、現在・過去・未来が交錯、血塗られた野望と運命の悲劇を鮮やかにうつしだし、人生の喜び、憂、儚さ、狂気をよりドラマティックに描きあげた作品です。

シェイクスピア安土桃山時代に移し替え、仏壇が舞台? と驚かれた方も多いかもしれませんが、これこそが、世界中の演劇ファンを魅了するまさに蜷川ワールド。

「今の世と、死後の世界を繋ぐ仏壇。仏壇を開けて位牌と対話できるということは、シェイクスピアの作品が自分たちの物語になるということだと直感した。お彼岸には家で仏さんを迎え、お重を持って墓参りに行き、ご先祖のお墓や桜の樹の間で食事をする。ある時期までごく普通に日本人の生活にあった風景が、そのまま“我々のマクベス”になるだろう」(蜷川幸雄談)

このサイトにアップされたスチールが以下。

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蜷川演出でもっとも優れた演劇的工夫はやはりそのセットだろう。それは蜷川がシェイクスピアと現代日本人とを結節しようとした試みでもある。それはまた、二重に、さらには三重にメタ化を施すことで、あの世とこの世、西洋演劇とこの舞台、過去の物語と現在とを対比し、それを観客が自分の世界に摂りこむことを期待した仕掛けともいえる。

仏壇仕様になったセット。扉を開くとそこにもう一つ天井までの障子状の扉が現れる。その奥には緩やかな階段状になった舞台床。上に引用した蜷川幸雄談にあるように、それが示唆しているのは、今の世と位牌の示す死後世界とが「仏壇を開けることで対話できるということ」なのであろう。この仕掛けそのものが二重にカッコに括られた世界を表象している。それによって「シェイクスピアの作品が自分たちの物語になる」とのを意図したのは明らか。終始舞台の左右袖に二人の老婆がまるで観劇でもするかのごとく座り込んでいる。お彼岸には家で仏さんを迎え、お重を持って墓参りに行き、ご先祖のお墓や桜の樹の間で食事をする。彼女たちは私たち観客の代わりということなのだろうか?私たちの将来の姿。人間の愚かさ、それも「英雄」の愚かさを描き出してみせるこの物語。それが、老婆=観客、そして実際の観客という二重のカッコに括られて提示される。つまりメタ化が二重に施されている。

英雄であっても人の業に囚われ、挙句の果てに全てを失う。栄光は破滅への一里塚。それが第一幕、第一場の魔女たちのセリフ、かの有名な「Fair is foul, and foul is fair」に表象されている。価値観の転覆はいかなる絶頂期にも起こりうる。否、絶頂期にこそ起こりうる。魔女というのは決して他者でなく、自分自身の内なる存在でもある。それがこういう己の中の葛藤という形で示されるところに、私は西洋的な、もっというならキリスト教的価値観を感じてしまう。絶対者と向き合う、そしてそれを怖れる卑小な人間として自己を認識すること。

でもこういうのは確かに頭では「わかっても」、何かしっくりこないのは、私たちの文化的、宗教的背景がキリスト教的世界観から外れているからかもしれない。私たちにはむしろ「盛者必衰の理」と言った方がピンとくるだろう。もちろん『平家物語』の出だしである。仏教思想からきている。これは能が内抱する世界観でもある。能を見ているときにはあまり抵抗感がないのは、こういう下地が私たちの中にすでに在るからかもしれない。

そしてこの蜷川演出である。仏壇状の舞台装置は「シェイクスピアの作品を自分たちの物語」にするためと蜷川は言っている。自分たちの「物語」とはあまりにも違う『マクベス』の世界観。これと直で向き合うのはしんどい。私たちの拝む対象とは違った絶対神への恭順の中に立ち上がってくる物語。それと「向き合う」のに仕掛けたのがこの蜷川仏壇だったのかもしれない。劇の中の出来事をカッコにくくるための仏壇の扉であり、舞台両袖の老女なのだろう。

そういうメタ化を施さない限り、舞台の私たちの世界とはあまりにも違いすぎる「悲劇」は「他人事」的に見えてしまう。カッコに括ることによって、舞台上の人物たちの咆哮、怒り、喜びといった感情を素直に受け取ることができる。そうやって初めて、あの「sound and fury」がこちら側にぐさりと突き刺さってくる。

Life’s but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

私がこの句「sound and fury」に初めて出くわしたのが大学時代に授業で読んだウィリアム・フォークナーの小説、Sound and Fury(『響と怒り』)でだった。これは実験的な小説で、大学生が読むにはかなり難易度が高く、かなり困った記憶がある。こちらもキリスト教的価値観とは無縁ではないテーマを扱っていて、それもしんどかった。受け取る際にはきつい抵抗感があった。でもそれこそが劇世界と向き合うということだろう。一筋縄ではゆかない理解。

つい先ほど見たスーパー歌舞伎の『ワンピース』と思わず比べてしまった。あのイージーなヒューマニズムの押し売り芝居と、向き合うのがかなりしんどいこの舞台と、どちらが見る価値があるかは一目瞭然だろう。

出演者は全員が全力投球。特に市村正親はもともと劇団四季ということもあり、西洋的な雰囲気をよく出していた。対する田中裕子はその逆で西洋的とはおよそいえないけれど、この対照が面白かった。彼女は仏壇世界とは非常に親近性がある。また、予想通り吉田鋼太郎が好演。