yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

梅若実師の「藤戸」in 「春の素謡と仕舞の会」@京都観世会館3月11日

素晴らしい謡で感動!抑えた中にも華やかさのある謡は梅若実(玄祥改め)さんの独断場だろう。穏やかに嫋嫋と語られた中に凄みがあった。脱帽した。昨年の『紅天女』の舞いで失望したのだけれど、今回舞いの箇所はなかった。梅若実さんの舞台をそう多くは見ていないが、今回は私が見てきた中でも際立って心に沁み入る謡だった。やっぱりすごい方なんだと納得。

素謡というのは能一番をシテ/ワキそして地謡全員が装束を着けず、舞台に座って演じるもの。もちろんお囃子はなし。こういうのを見るのは初めて。「藤戸」は四番あった素謡の最後のもの。シテは梅若実さんでワキが青木道喜さん。二人の掛け合いにグイグイと惹きつけられた。ワキツレの大江広祐さんは出しゃばらず、でもきちんとシテとワキをサポート。この三者のキャッチボールの妙に打たれた。素謡方式では、シテ、ワキ共に地謡の中に入って、地謡部分を共有する。こういう演じ方にまず驚いたけれど、慣れてくると能とは違った面白みがあることに気づいた。お囃子がない分、各演者の巧拙がよくわかる。また、シテとワキが地謡に加わるという「民主的」な形態なので、謡の詞章がより前面に躍り出てくる。こんなことができるのはさすが京都観世。謡に絶大なる自信がおありなんだと思った。

梅若実さんが京都観世に加わったのが興味深かった。もっとこういう機会があればと願う。梅若流は今は観世流に加わって入るけれど、資質がかなり異なっているように感じる。梅若実さんの凄さは京都観世と共に謡っておられるときは中に溶けこんでいるのに、一人の謡では明らかに普通の(?)観世のものとは違う謡になっているところ。あとを引く情緒がある。これが「梅若の独自性」なのかもしれない。

梅若実さんが書かれた『まことの花』は素晴らしい伝記であると同時に、今梅若家を背負っていることの意味を彼が強く意識しておられることが、言葉の端々に感じられる著書。その彼のお父上の梅若六郎さんの『卒都婆小町』と『松虫』を最近DVDで見直して、涙が止まらなかった。以前に見たときはそうではなかったので、自分でも驚いてしまった。現梅若実師のお祖父さまの梅若実師の『鞍馬天狗 白頭』を合わせて見たのだけれど、こちらも言葉がないほどに感動した。現在の実師も子役(義経)で出ておられる。これらの録画が残っていて本当に良かった。記事にしようと思いつつ、身の程知らずかもって思い、なかなかできないでいる。

そんなことで悶々としているところ、船木拓生氏の書かれた『評伝 観世榮夫』を読んだ。ここにはいわゆる観梅問題の詳細が記されているのだけれど、『まことの花』でさらっと書かれていたこの問題の背景がよくわかった。と同時に現梅若実師のお父上、お祖父さま、お二人の偉大な能楽師の苦労に思いを馳せた。この評伝は学術的であると同時に、著者の芸術性の高さ、鑑賞眼の確かさが明瞭に出ている本で、出会えたことに感謝している。