yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「羽生結弦選手が(パフォーマンスも)なぜ美しいのか」

羽生結弦選手のパフォーマンスがなぜ美しいのか」を「分析」している本が本屋に平積みになっていた。そこの中の一節に引っかかった。「彼の演技が能や狂言を使っているのかもしれない」(表現は違っていたが)っていうものだった。能と狂言は目指すところは違っていて、質的にもかなりの違いがある。羽生選手の演技は狂言的ではなくきわめて能に近い。いくら彼が萬斎氏と対談し、啓発されたといっても、その演技に狂言の痕跡はない。強いていうなら、萬斎氏の映画「陰陽師」中での振りには確かに似たものがあるけれど、あれは狂言のものとは違う。狂言師も能の舞、謡の稽古をしているので、萬斎氏の「陰陽師」での所作に能があるのは間違いない。羽生結弦さんの演技から浮かび上がるのは、あきらかに(狂言ではなく)能の所作である。能の所作というのが言い過ぎなら、能的なものである。本の著者はその区別がつかないんだろう。

それと、最も引っかかったのが、この方の「美しい」という美的判断が普遍的なものではなく、標準的というか大衆的なものだったから。技術的なことも書いておられたけれど、それだけではなく、そこを超え出るものがあるから羽生結弦羽生結弦なんだという点が曖昧だった。他のスケーターたちとの決定的な違いが、この本からは判断できない。他のスケーターとの比較なんていらない。彼らはあくまでもスポーツ選手であり、それ以上ではないから。それ以上を目指してもいないだろう。関心はもっぱら高得点を取ることだろうから。

美しいというのはどういうことか?

カントは、美を道徳に還元できるものと考えた。美の判断と道徳判断の呼応性、親和性を極めようとした。Third Critiqueの『判断力批判』で彼が唱えたのは、趣味(美)判断が、「構想力」(イメージ統合能力)と悟性(認識能力)の「自由な戯れ」に関わっているということだった。つまり、美の判断は常に悟性と一致しようとするのである。「美の判断が自由意志によって自発的に悟性の普遍性と一致しようとしている」あり方は、「道徳が、自由意志によって道徳法則と一致しようとするあり方と同じ」であるとカントはいう。

美と道徳というけれど、この道徳は倫理といいかえれると思う。「美しいものは倫理の象徴である」というとき、この倫理は人智を超えた普遍的な善、絶対善を示している。つまり「神」的存在を示唆している。となると、美への賛嘆は宗教性をふくんでいる」といえるのではないか。

羽生結弦選手の演技、それは宗教性を纏っている。他の選手たちとの決定的差である。彼の演技は美しい。それはそこに祈りがあるからだと思う。見ている者にその祈りを強く感じさせるところが、感動を呼ぶ所以だろう。私が能に惹かれるのは、能が必然的に孕む宗教性である。最近では坂東玉三郎の舞踊に同じ祈りを感じて感動した。演技として技術的にも極めているだけではなく、それを超える宗教的な何かがあるという点で、羽生結弦選手と玉三郎とが重なってみえた。