yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師の仕舞、「野守」 in 「片山定期能1月公演」@京都観世会館1月21日

味方玄さんがこれほどの激しい動きのある仕舞を舞われるのを見たのは初めて。新鮮だった。世阿弥作の能『野守』、「鬼物(五番目物)」になるらしい。

「鬼物」といわれているようにシテは鬼神。舞台は春日の里。時は春。のどかな里を訪れた山伏。その祈りに応えて出てきたのが凄まじい形相の鬼。鬼が手に持つのはこの世の森羅万象を写しだすという「野守の鏡」。初めはランランとした鬼の目を写していた鏡。それがやがてこの世界様々な相を映し出し、さらには地獄の様まで明らかにする。恐れおののく山伏。それを見届けた鬼神は地獄へと帰って行く。

能の一場面のみを切り取ってみせる仕舞。とはいうものの結構長い。長いように感じるのは、ストーリー展開がありありとリアルに示されるからかもしれない。

手に持った扇を鏡に見立て、それに自らを映し出し、さらには水に映った自らの姿を扇に映す。いわゆるメタ化を何重にも施して提示される鬼神のサマ。それを扇一本に賭けて表現する。まっすぐに前をみる顔には一点の曇りも、躊躇いもない。ただ、ひたすらに鏡と合体した自身の姿を示し続ける。ときには直線的かつ滑らかな動きで、ときには回りこんでの複雑な動きで、ときには素早い回転、着地にと、多彩なムーヴメントで鬼の「意地」を顕現させる。ふっと思ったのは世阿弥は自身をこの鬼に一体化していたのではないかということ。そう考えると、この鬼がとても親しく、懐かしく感じられる。

味方玄さんの舞いは知的で、それだけで完結している感があるのだけれど、今回は何か余剰のようなものが残った。それは、きっともともとこの能自体が孕んでいる鬼という存在の「余剰」だったような気がする。余剰はそのままはじき出された者がもつ哀しみだったと「理解」」すれば、想いがぐっと迫ってくる。