yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『紅葉狩 鬼揃』in「能楽二条城公演」@二条城二の丸御殿台所10月13日

ロンドンに8日いただけで、能舞台が恋しくなった。帰国して早々に湊川神社で能を堪能(これは別稿にしたい)、昨日のこの『紅葉狩』は二つ目になる。しみじみと身体にしみとおり、細胞の一つ一つを潤してくれる感じを実感した。

初めて見る『紅葉狩』、期待にたがわず素晴らしかった。演者単独でもそうだけれど、全体の構成でみても。それになんと躍動的なこと。動きが大きく、また激しい。それは三人の鬼にもいえるし、鬼退治をした平維茂にもいえた。まるで現代劇の舞台。「作者は誰?」と思ったら、案の定観世小次郎信光だった。意表をつく演出!きっと当時も観客は驚きと興奮で持って観劇/観劇したことだろう。その頃の観客と場を共有しているような、そんな気分を味わった。

今回は「能楽.com」からの演目紹介を引用させていただく。

旧暦9月の、紅葉が美しいとある山中にて。

高貴な風情をした女が、侍女を連れて、山の紅葉を愛でようと幕を打ち廻らして、宴を催していました。その酒席に、鹿狩りの途中であった平維茂(たいらのこれもち)の一行が通りかかります。維茂は、道を避けようとしますが、気づいた女たちに「是非ご一緒に」と誘われるまま、宴に加わります。高貴な風情の女はこの世の者とは思えぬ美しさ。酒を勧められ、つい気を許した維茂は酔いつぶれ、眠ってしまいます。それを見届けた女たちは、いずこにか姿を消してしまいます。

ちょうどそのころ、八幡大菩薩の眷属(けんぞく)、武内の神が先の山(実は信濃国戸隠山)への道を急いでいました。維茂を篭絡(ろうらく)した女は、戸隠山の鬼神だったのです。武内の神は、維茂の夢に現れてそのことを告げ、八幡大菩薩からの下された神剣を維茂に授けました。さて、夢から覚めた維茂の目の前には、鬼女が姿を現し、襲いかかってきます。維茂は勇敢に立ち向かい、激しい戦いの末に、みごとに神剣で鬼女を退治しました。

演者一覧は以下。

シテ (前)上臈  片山九郎右衛門
シテ (後)鬼女  片山九郎右衛門
ツレ  侍女    味方玄
    侍女    片山伸吾
    侍女    橋下忠樹
ワキ  平維茂   福王和幸
ワキツレ 太刀持  福王知登
     勢子   広谷和夫   
     勢子   喜多雅人
アイ   供の女  島田洋海
     末社神  茂山逸平

笛    杉井市和
小鼓   吉阪一郎
大鼓   河村大
太鼓   前川光範

後見   青木通喜 河村博重 梅田嘉宏
地謡   古橋正邦 浦田保観 分林道治 
     橋下光史 大江信行 深野貴彦

普通、ワキが最初に登場、次第を述べるところを、この演目ではいきなりシテとシテツレが登場する。これからして意表を突かれる。ワクワク感が高まる仕掛け。しかもそのシテと三人のシテツレがいずれも華麗な衣装をつけ、麗しい(面をつけた)女性とくれば、「一体何が起きるの?」と期待してしまう。シテ、シテツレの動きが常になく素早い。ささっという感じ。それにもかなり驚かされる。

そしてワキの登場。鹿狩りの途中の平維茂。なんかものものしい。こちらもシテ、シテツレと同人数なので、圧迫感が舞台に充満している。女性軍と男性軍との「対面」(confrontation)に、否応なく緊張感が漂う。女性の「誘惑」にどこまで維茂は抵抗できるのか。あの歌舞伎の『鳴神』を見ても、それは無理だというのが常。ところが『紅葉狩』では神が維茂を助け、誘惑から「救出」するというプロットになっている。神は全力で維茂をサポート。秘蔵の神刀まで彼に与えて、鬼女を「退治する」のだ。

文化人類学でこのくだりを読めば、「神」とは大いなる秩序(体制)であり、退治される鬼女はそれからはみ出し、秩序を乱す異端者ということになる。鬼とは体制が排除しなくてはそれを維持できなくなるほどの巨大なパワーを表象しているともいえるだろう。バタイユ的に言えば、過剰なエネルギーは「蕩尽」されなくてはならないのだ。社会システムを安定させるために。それにしても「過剰」を表象するのが女であり、しかも鬼であるというこの狂言。なんとも意味深長だし、また面白い。

前場三人の侍女の中で、味方玄さんはすぐにわかった。一人で舞うところがあるのだけど、すっきりと美しいから。鬼なのに爽やかな風のように舞われた。こちらに迫ってくるように舞われるところでは、存在の重さがパッとそこに聳えたす感じはするんですけどね。とにかく品格が高い。鬼なのに。いな、鬼だからこそ?

シテの九郎右衛門さんも素晴らしい。他の侍女たちが去った後に一人舞われる場面があるのだけれど、圧巻。舞台を縦横に駆け巡る。それもすごいスピードで!橋掛かりの中途で観客をきっと見据えるところ、白い面がまるで生きているようにその場に浮き上がった。これにはびっくりして、声をあげそうになった。もうまさに、そこに、目の前に美しい上臈がいるんですよ。時が何百年も飛び越した気がした。

その雰囲気が後場まで引きずられる。後場でのシテ、シテツレの舞は短めではあるのだけれど、その分、個々それの、特にシテの勢いが前場の何倍かあるように感じた。この演出も信光らしいなと思う。前場で横に編まれた糸。その糸の間に縦糸を入れ込むかのように、激しく縦の動き(=立体的なモーション)を刻みつけて行く。ひとことで「躍動的」と言ってしまうには、もったいない縦横無尽な、しかも緩急自在な動き。見ている側も興奮してしまう。

鬼女たちが般若面をつけてここまで舞い狂うのに、維茂は完全におされている。彼単独で立ち向かうのは不可能なので、神が彼を助けるのだ。それほど力の差は歴然。こういう描き方も面白い。もちろん最後には維茂が鬼女を退治して「めでたし、めでたし」にはなるのだけれど、まぶたの奥にはしっかりと鬼女の存在が刻み付けられてしまうことになる。鬼女の勝ち?結局「狩られた」のは維茂の方だったかも。

始まったのが午後6時半、終わったのが9時。開演40分前に着いたのにもかかわらず、脇席、それも座布団席のみ。良席(舞台正面の椅子席)はそのほとんどが「留学生」、「関係者」席と表示されていた。

この「東アジア文化都市京都」絡みの芸能公演は、こういう風に外国人を優遇する「差別」が顕著。アメリカの大学に在籍していた頃、こういう「優遇」を受けた覚えはない。それで不満もなかった。だからこの「優遇」は「逆差別」にみえる。留学生はすでにチケット代を無料、もしくは減額されていると思われる。演者の方たちにはなんの関係もないことなので、クレームをいうのは気がひけるのだけど、一考の余地あり。

さらに残念なことは主催者に本当に能の好きな人、あえていうなら芸術に強い関心を持っている人はほとんどいなかったんじゃないでしょうか。京都を「文化都市」と位置付けるのであれば、もっとその辺りを検証しない限り、「世界の片田舎」の行事に終わってしまいますよ。加えて、なぜ「東アジア」にばかり目を向けるんですか?それも札付きの反日国家である中国と韓国のみ。解せませんね。何かそういう圧力が働いているんでしょうか。何か胡散臭さを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

「世界都市」として京都を位置付けたいのであれば、中国、韓国との間の「文化交流」だけにこだわる必要はないですよね。アジアにこだわるんであれば、中韓以外の国々、東南アジア、それにインドもあります。私たちが知らない豊かな文化を持っている国々、地域、むしろそういうところと重点的に交流して欲しいと、切に願います。