yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ジュリアン・クレイの『大いなる死』(Le Grand Mort@Trafalgar Studios 2 in London 9月29日

90分のお芝居。とてもcomfortableなひとときを過ごせた。まず観客の質の高さ。芝居が終わった後、部屋全体に連帯感のようなものが生まれていた。日本でも、アメリカでも味わったことのない快適さ。「よそ者」の私はちょっと泣きそうになった。アメリカでもゲイの芝居を見たことがなんどもあるけれど、こんなんじゃなかったから。

登場人物は
Julian Clary as Michael
James Nelson-Joyce as Tim
の二人。

主役のマイケルがパスタソースを料理するところから始まる。このときの彼のモノローグ、延々と続く。ことばの洪水。欧米の芝居ではことばの洪水に溺れそうになることがあるけれど、まさにそれ。話題があちらこちらに飛ぶので、それも形而下から形而上に飛ぶので、なかなかついて行けない。当方の「聞き取り」が今ひとつというのもあるだろうけど。かなり文学的。『ガーディアン』評ではジュネを思わせるとあったけど、確かにそう。「性」がどれにも絡んでいるところもジュネだろう。それがその筋の人にしか理解できないレベルだったりする。Clay自身がゲイで、その方面では有名らしいのをWikiで知った。先ほどのモノローグも彼のスタンドアップコメディアン時代の経験が生きているのだと思う。モノローグといっても、観客に語りかけ、彼らの反応を「餌」にして話を発展させるところなんて、まさにそう。すごい!

しかも、このモノローグ、一連の料理の流れを伴っている。実にスムースに次から次へと野菜を刻み、炒め、その中でも喋りをやめない。クレイは間違いなく料理がうまいし、好きなはず。まるで本職のシェフのよう(ちなみにゲイの男性は料理のうまい人が多かった)。とても気取った感じで喋りながら。それがあのクエンティン・クリスプとかぶった。ワクワクさせるところも一緒。深層心理に喰い込んでくるところでは、こちらも穏やかではいられない。観客もきっと同じ思いで見ていたはず。彼が連発するブラックユーモアに、笑いがあちらこちらで挙がったけれど、それは連帯感の表れ(だと思う)。

招待客はパブ(おそらくはそちら系の)で出会ったばかりのティム。あらあらしく登場したティム。まるでマイケルとは対称的な若い男。マイケルは(クレイがそうなんですが)若くはないけれど、知的でハンサム。教養のある話し方、態度、身のこのなし。それに比べるとティムはずんぐりむっくりの筋肉隆々。コックニー訛り丸出しで、野卑。ここまではある意味ゲイカップルの「常套」の姿。

ところが、二人が「intimate」の意味を議論するところから流れが変わる。ティムはまるで精神分析医のように、マイケルの深層心理に踏み込み、分析する。おバカと思っていた観客に一矢報いるのがおかしい。母を讃えるマイケルの饒舌。ところが、実際は幼児虐待を受けていたことをティムに暴きたてられる。たじろぐマイケル。

たじろぐマイケルをテーブルの上に押し倒し、丸裸(!)になったティムがナイフを持って「襲いかかる」。横にあるミケランジェロ「若い男像」の局所をナイフでなぞり、そのナイフをそのままマイケルの局所に振り下ろす振りをする。つまりことばに行為を伴わせて、マイケルがひた隠しにしている深層をえぐり出す。彼にとってはことばは行為と一致するものでなければならないのだ。お上品ぶったマイケルの皮をはがしてしまう。

マイケルは抵抗しつつも最後はティムに従順に従う!彼が「女性」役を担わされる瞬間である。マイケルが料理した上品なパスタと用意したワインはティムがゴミ箱にぶち込んだ。ティムが冷蔵庫から勝手に失敬したシャンパンを汚れたグラスに注ぎ、二人してそれを飲むところで終わる。

ここでタイトルの 「Le Grand Mort」が気になる。「大いなる死」って、詩人、作家の誰かが言ってましたっけ?私はエクスタシーと理解したんですが。およそ相いれそうもない二人が、死と不可分の愛欲を介して暴力的に結びつき、そこで初めてGrand Mort=死の絶頂感を得る。いわばエロスとタナトスとの一致をみる?読み込みすぎかもしれませんが。

「解釈」するのは難しい。それぞれの受けとめ方があるだろう。あの場にはゲイのカップルも多く来ていた。彼らの反応も様々だったはず。それでもあれほど和やかな雰囲気だったのは、素敵だった。素敵な人たちだった。

ジュリアン・クレイについてはWikiにもアップされている。画像もあった。