yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『芭蕉』in 「片山定期能 九月公演」@京都観世会館 9月23日

金春禅竹作だという。やっぱり。先週にみた『野宮』と非常によく似ていたから。特にシテの動きがあまりないところが。物語展開の面白さはほとんど感じられない。その分、シテの(ただ立っているだけの)身体が帯びているエネルギーが猛烈である。先日の味方團さんの六条御息所にもそれを強く感じたが、この日の青木道喜さんが演じる芭蕉の精にも、尋常ならないエネルギーを感じとった。もっとも、最初橋掛りから登場された時はそうインパクトは感じなかった。その彼が舞台下手まで進みきてそこにただ立ったとき、その姿が静かな炎を放っている感じがした。私の席からは柱が邪魔で一部見えなかったのに。

かなり長い間そのまま佇んでおられた。

こういう演劇はない。役者が舞台で動いて、喋って「なんぼ」という世界である。普通の演劇は。それが動かず、喋らずで「存在感」を出すっていうんだから、そこにゆくまでのものすご時間の集積を想像してしまう。その芸に「なんぼ?」と問う観客。それをいわせないよう、ねじふせなくてはならない。それにこの日のシテ、青木道喜さんは成功されていた。

以下が当日の演者一覧。

前シテ(里の女)   青木道喜
後シテ(芭蕉の精)  青木道喜
ワキ(山居の僧)   宝生欣哉  
アイ(里の者)    茂山七五三
笛          杉市和
小鼓         吉阪一郎
大鼓         亀井広忠

お囃子も良かった。すっきりとしていて、くどくない。とはいえ、このどちらかというと「退屈な」舞台と観客との橋渡し役を、囃子方がやっていたのかも。地謡もあったけれど、囃子の緩急のつけ方のほうがより目立つ構成。それでもじゃんじゃかというのではなく、抑制が効いていた。「呼吸」を心得た三人の囃子方たちが一糸乱れず演奏されて、囃子がシテを支える大きな役割を持つことを、改めて認識した。でもお囃子のおかげで暗くないんですよね。どこかに意図的に作られた綻びのようなものがあり、それがおかしみも醸し出している。

この日の京都は今まで以上の混雑ぶりで、着くまでに疲れ果てていたけれど、素晴らしい舞台に間に合って良かった。