yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師の舞囃子「羽衣」in「京都駅ビル薪能」@京都駅ビル室町小路広場9月9日

味方玄師の「羽衣」、本番の1時間前に事前確認で舞っておられたところに遭遇した。直面で衣装もつけておられなかった。それでも怖ろしいまでに気が伝わってくる謡の声と舞いだった。

幸運にも本番直前、舞台から2メートルほどのところ(舞台と長階段の間)に移動できた。ちょっと心の準備ができていないほどの近距離。今までにこれほど近くで彼の舞いをみたことがないので、興奮してしまった。

なんと本番ではきちんと羽衣の衣装、それに面を付けて出てこられた。これにも驚いた。普通、舞囃子では衣装も面も付けないので。彼の気の入れ方がハンパないことがビンビンと伝わってきた。

あの長い『羽衣』の視覚的、聴覚的にクライマックスに当たる場面を舞われた。羽衣を返してもらったことへの返礼、それと天に変えることの喜びを表す舞い。見応えがあった。今までに2度ばかりフルで『羽衣』をみてきているけれど、それらとは違った感じがした。喜びの部分に陰りがあるというか、そんなに手放しでの歓喜を表しているようには思えなかった。例によって「銕仙会」の解説を引用させていただく。

羽衣を身にまとった天女は、天人の舞楽を舞い始める。
──霞たなびく春、月の都では桂の花が咲いている頃。美保が崎の曙の春、清見潟の月の秋、富士の雪の冬と、四季折々に美しいこの駿河の地の、長閑な浦の景色。そんな中、天女の舞い姿に妙なる音楽までもが澄みわたり、紅に輝く夕日が富士の高嶺を染め上げ、海の面は緑色に照り映えて、天より花の降り下る、舞の袖の美しさよ…。

確かに喜びを舞ってはいる。でもその前に衣を奪った白龍とのやり取りがあるわけで、それが羽衣に動揺をもたらしているように感じてしまった。天女は人間界の白龍と自らの属する天界との違いを説いて、白龍から衣を奪い返した。でもどこかに白龍への恋心があったのでは。天女はこの世(=俗)の感情からは超越した存在であるはず。でも彼女は衣を盗られたことで、白龍とは浅からぬ縁で結ばれてしまった。それを絶って、あちらに帰って行かなくてはならない。そこには天女が今までに感じたことがない(感じることを禁じらた)恋の芽生えがあったのかもしれない。白龍とはもう二度と会うことはない、その哀しみ。

だから彼女の舞いはどこまでも広がる天衣無縫の舞いというのではない。哀しみを帯びたものになっているはず。味方玄さんの舞いはそれを表現しているように感じた。さすがに味方玄さん。こういうストーリーをみている側に描かせる舞いと謡。そのストーリーが味方玄という能役者の身体を通して目の前に立ち上がってくるのに、どぎまぎしてしまった。『羽衣』をみてこんな想いに囚われることはもうないかもしれない。貴重な体験だった。