yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『鯉名の銀平 雪の渡り鳥』in 桐龍組恋川劇団@新開地劇場8月10日夜の部

よかった。恋川純座長の銀平は出色。これ以上の銀平は望めないほど。

長谷川伸原作のこの作品、他劇団でも見ている。どこで見てもよかった。それは原作自体の構成がきちっとしているからだろう。それと人情に訴える部分が起承転結の流れにうまくはまっているからだと思う。長谷川伸ならではである。一見「古臭い」印象の芝居。でもこれが舞台に乗るとその「古臭い」が故に心を打つんですよね。人の情というものが、時代を経ても、環境が変わっても、そう変わるものではないということなんだろう。人情の機微を知った長谷川伸のうまさと言えるかも。

「うまさ」というと語弊があるかもしれないけど、技巧的なうまさを言っているのではない。長谷川伸が自身の生い立ち、生き様から持たざるを得なかった「はぐれ者」への共感が、銀平という一人のやくざ者の造型に表れているからだろう。そのやくざ者は世間から蔑まれて生きざるを得ない運命を背負った、いわば徴付きの者。そのやくざ者が(自分を「裏切った」)女とその親を守るため死を覚悟で闘いに挑む。長谷川伸好みのパターン。西欧の英雄(騎士道)譚に似てはいる。でも根本的に違っているのは、やくざ者はヒーローではないところ。彼はあくまでも有徴者。表社会から外れた者であるところ。「負」は最後まで「負」であり、陽の目を見ることはない。ここに日本人の心をくすぐる何かがあるんですよね。他の文化圏では単なる「バカ」にしかならない男ですよ。この男に共感する自分に気づくと、やっぱり私は日本人なんだなって感じるんですよね。リトマス試験紙のような作品。

でもこれを歌舞伎の役者がやったらそこまで感動したかどうか。銀平は大衆演劇の役者が演じて初めて、リアルに立ち上がってくる人物だろう。芸術的云々の域のレベルではなく、リアリティのレベル。

恋川純さんの銀平には「救い」があった。これもリアリティのレベルで。彼はまだ26歳とお若い。だから帆立一家を皆殺しにしたと奉行所へ名乗りをあげて行き罪に服したとしても、まだ先があると予想させるから。こんな見方は邪道かもしれないけど、でも大衆演劇の舞台は(客のいる)現実の世界との垣根が曖昧なので、そう感じてしまうのも自然かもしれない。歌舞伎のように客と隔絶した舞台では味わえない「醍醐味」でもある。

純さんはいつものことながらパーフェクト。カッコいいやくざ者であると同時に、可愛い感じが残っているのが、やはり純君。これじゃ、卯之吉(風馬)に勝ち目はないですよね。

それにしても風馬さんはじめ千弥さん、晴城さんが見違えるばかりに腕をあげておられた。心哉さんの抜けた穴は完全に埋まっていた!この難しい芝居をこの少人数で演じきったのが驚き。確かに東映の役者さんの応援はあったものの、それ以上に劇団員が頑張っていた。純さんの指導がいかに行き届いているかがわかる。成田屋とかいうド下手な自称「歌舞伎役者」ならぬ「人間国宝」に見せてやりたい。役者としての存在価値はもはやないでしょ?

もう一つ、感心したのが舞台装置。舞台転換に驚くべき工夫があった。以前からやっておられたのかもしれないけど、私にはこれは初めてのもの。歌舞伎の舞台転換を模していた。歌舞伎劇場ほど設備の整わないところでここまで造りあげるという、その心意気に感動した。これを発案したのはどなた?とにかく唸った。

今月の恋川劇団、気合の入り方が半端ない。ただでさえ少ない劇団員、そこに心哉さんが抜けられたのでさぞ「やりくり」が大変だと思う。だから東映から応援の方が来られていたのだろう。大入りを一枚でも多く取るという意気込みが感じられる。でも、そこは品の良い恋川劇団、決してガツガツしていないんですよね。私が最も好きな、そして評価する劇団。お芝居もがっかりすることがない。もっと良いのは九州系のド悲劇がないこと。芯があって、それでいておしゃれなお芝居をされます。今月は是非新開地の恋川劇団へ、GO!