yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

華やかさ、スペクタル度満載の能『張良』in 「片山定期能七月公演」@京都観世会館7月15日

あまり演じらることのなさそうな『張良』。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説が以下。

能の曲目。五番目物。五流現行曲。観世(かんぜ)小次郎信光(のぶみつ)作。漢の高祖の臣下張良(ワキ)は夢のなかで老翁に会い、馬上から落とした沓(くつ)を拾って履かせたことから、兵法伝授を約された。半信半疑で出かけると、老翁(前シテ)は張良の遅刻を怒り、再会を試すといって消えていく。後日、張良は同じ橋のたもとで威風正しい黄石公(こうせきこう)(後(のち)シテ)と会い、川に落とされた沓を拾おうとするものの、大蛇(ツレ)が現れて妨げるが、剣を抜いて沓を奪い、黄石公に履かせる。試練に合格した張良は、兵法の奥義を授けられ、大蛇は守護神になろうと消える。激流に沓を拾う演技が見もので、後見の投げる沓の落ちた位置によって臨機に演技せねばならず、ワキの重い習いであり、ワキ方にとっての登竜門の能である。[増田正造]

ここにあるように、観世信光作。この華やかさ、スペクタル度満点の舞台展開はまさに信光。前の記事にした梅原猛、観世清和監修『能を読む4世阿弥と信光以後』(角川学芸出版、平成25年刊)に曲が載っているので、参考になった。上の「ニッポニカ」解説ではツレが「大蛇」となっているが、舞台では「龍神」だった。ワキが主体となった珍しい曲。『能を読む』には副題が付いていて、曰く、「異類とスペクタクル」。まさにこの副題通りの異類のシテ、シテツレが登場。それらがワキと闘うという、普通の能舞台ではあまり見られない能動的な舞台になっていた。演者もそうなら、囃子もしかり。演者を煽り立てる。こちらも煽られ、興奮してしまった。

この日の演者は以下。

前シテ 尉   武田邦弘
後シテ 黄石公 武田邦弘 
ツレ  龍神  梅田嘉宏 
ワキ  張良  宝生欣哉
アイ 下人  山口耕道
笛  左鴻泰弘 
小鼓 林吉兵衛 
大鼓 河村眞之介 
太鼓 前川光範 

後見 大江広祐 小林慶三 味方玄
地謡 河村和晃 清沢一政 橋下忠樹 田茂井廣道
   分林道治 河村博重 古橋正邦 片山伸吾

張良は漢の高祖の臣下。この演目は、彼が下邳の土橋で黄石公から兵法の奥義を伝授されたあらましを描く。比較的穏やかな前場に対して、後場のダイナミズムが際立った対照をなしている。

後場での激しいモーションがダイナミズムを生み出していた。まず、台座に上がった黄石公が自身の沓を川に投げ入れる動き。シテではなく、後見が後ろから沓を放り出していた。それまでのなだらかな流れがこの動きで遮られるので、見ている方は「ぎょ!」っとする。その沓を川から拾い上げようと、ワキの張良がくるっと回転する動きを何度となくやってみせる。ここでの宝生欣哉さんの軽やかな回転ぶり、みごと。ワキの登竜門というのも理解できた。

龍神が荒々しく登場し、その沓を拾い上げ、張良に向かってくる。しかし張良は怯まず、剣を抜き取って龍神に向かう。この「立ち回り」にも驚いた。能舞台は広くないので、とてもリアル。ついに龍神が負けて、張良に沓を差し出す。剣を納め、沓を受け取った張良は今度は川から黄石公の乗っている川岸(台座)に駆け上がる。これらの動作は「能の常識」を破る激しいもの。それらの動作が能の流れ(flow)に一つ一つ刻印を押してゆく。刻印が刻まれるごとにお囃子のテンポは早くなる。中でも畳み掛けるように打ち鳴らされる太鼓がそれを煽る。ワクワク、ドキドキしながら仔細を見守る観客。この臨場感が素敵だった。

ワキの宝生欣哉さんは上に書いたように機敏な動きに見ほれた。また、シテツレの龍神を演じた梅田嘉宏さんの若々しい一連の動作に感動した。後の能、『松風』で後見をされたので、お顔が確認できた。前川光範さんの太鼓、あの激しい拍子に溺れそうになった。今日は今から京都府立芸術文化会館で彼の「お囃子ラボ」を聞きに行く予定。