yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

三島由紀夫作『美しい星』の映画化

2日前に梅田のシネリーブルで見てきた。劇場の入っているビルには3年前、「ゲーテ・インスティチュート」を訪ねた折に行ったきり。駅から遠い上、ちょっと分かりづらく、また時間もお昼に始まるので観客は少ないだろうとタカを括っていたら。とんでもない。40人ばかり。三島のコアなファン?もしくは吉田大八監督のファン。万人向けの映画ではないので(そもそも原作がそう)、ここまで動員できていて、嬉しかった。

一応、公式サイトをリンクしておく。また、「あいむあらいぶ」さんのブログ「物語る亀」さんのブログがこの映画についての講評を載せておられるので、リンクさせていただく。

以下が主要な製作陣とキャスト。

監督  吉田大八
原作  三島由紀夫
脚本  吉田大八 甲斐聖太郎 鈴木ゆたか
撮影  近藤龍人
照明  藤井勇
録音  矢野正人
美術  安宅紀史

キャスト
リリー・フランキー 大杉重一郎
亀梨和也 大杉一雄
橋本愛 大杉暁子
中嶋朋子 大杉伊余子
佐々木蔵之介 黒木克己
羽場裕一 今野彰
• 春田純一 鷹森紀一郎
• 友利恵 中井玲奈
若葉竜也 竹宮薫
• 坂口辰平 長谷部収
• 藤原季節 栗田岳斗
赤間麻里子 丸山梓
• 武藤心平 三輪直人
川島潤哉 加藤晃紀
• 板橋駿谷 茂木潤

原作の忠実な翻案を期待していたら肩透かし。舞台は現代に置き換えられているので、それは当然とも言える。人物もかなり整理されている。中でも決定的異なっていたのは、小説では核による世界滅亡への危機感、不安が通奏低音にあり、その雰囲気が重く立ち込めているのに対して、映画ではそれが地球温暖化問題にすり替わっていること。地球温暖化の問題が重くないとはいわないけど、核、核兵器の脅威と同列にはならないだろう。いっそ核問題ということにすればよかったのにと残念。小説の中でも米ソの対立によって、一触即発の事態が起きるかもという不安が描かれているのだから。実際、日本は北朝鮮の核の脅威にさらされているわけで、その点では現実の状況の方が重いという皮肉なことになっている。もちろん「フクシマ」も同様である。三島が見ていたのはこの現実の重さだったのであり、その状況を一旦エポケーすることだったように思う。理性には頼らず、「美しい気まぐれ」の方に希望を託す。その美しい気まぐれを表象するものが宇宙人であり、空飛ぶ円盤という奇抜なアイデアだったわけ。

政治情況は美によってのりこえれるのか?美は政治をどう「無力化」できるか。主人公の重一郎が出した答えは、自身が火星人となって、人類救出の使命を全うすることだった。こう見てくると、三島はこれを書いたころはまだ多少の期待、希望を政治に対して持っていたのだと思う。まだ彼自身がそこに参加する(アンガージュ)するという意識はなかったのだろう。美学が勝つと思っていた?

ソヴィエトの核実験がもたらす影響を憂えていた原作の重一郎の述懐。

これを思うと重一郎は人類の緩慢な自殺の姿に、言いしれぬ気持ちになった。

死は今や美しい雲の形で地球を取り巻いていた。(略)見えない死の絶え間ない浸潤。あの空のはるか高みにふりまかれた毒が、地に降りて、野菜や牛乳を通して、人間の骨の奥についに宿りを定める春が来ていた。(略)倦まない旅をつづける微細な死はいよいよ居を定めると、生きている人間たちに、その肉体の不朽な部分の本質を(略)高らかに告げ知らせるのだ。(略)それらの死は、日を浴びた美しい野菜畑や、緑の森と小川を控えた牧場や、すべて花と蜜蜂に溢れた風景の只中からやってくる。(略)その歌がもうそこにきこえる。重一郎には耳も聾せんばかりにきこえるその歌が、人間どもにはきこえないのである。(166−167頁、新潮文庫、1994年)

三島がこれほどに重く捉えていたというのが、まず驚きだった。これを最初に読んだ頃にはさほどここに留意しなかったので、今頃「へぇー」って感じ。もちろん単なる核問題としてではなく、これを重一郎は国際間のパワーポリティックスとして捉えているわけで、この短い段落ででも(自然の)美を侵食するものが何かが浮かび上がってくる。とはいえ、三島らしくいかにも耽美的な文章に惑わされ、淫させられてしまうのは如何ともしがたい。政治を語るのではなく、まるで彼の美学を聴いてる心持ちになる。後年の彼の自決を知っているので、やるせない思いにもなる。

映画にはこういう切羽詰まったものが感じられない。小説と映画との乖離。仕方ないとは思う。

ただ、共通点というか、吉田監督の「三島を映画化する!」というただならない意思を強く感じたのが役者(人物)の選定。重一郎を演じたリリー・フランキー、息子の一雄を演じた亀梨和也、娘の暁子を演じた橋本愛、すべてに共通していたのがアンニュイ感。で、「こんなばらけた状態でどうなるの?」って思っていたら、最後ではしっかりと結束して(?)重一郎を円盤に乗せる。この真剣なのか外しているのかが判然としない雰囲気を醸し出していて、「宇宙人」であるという設定にぴったり。

小説では木星人、映画では地球人の重一郎の妻、伊余子を中嶋朋子が演じた。バラバラの宇宙人家族をまとめる役割を担っている。地球人らしく(?)優柔不断で、他の星人たちに振り回される伊余子を好演。もう一人の重要人物、黒木に佐々木蔵之介。原作では黒木は大物政治家になっているけど、映画ではその秘書という設定。この謎の男が政治家を手玉に取っている様は原作になく、ここに監督の「シャレ」を感じた。それにぴったりの人選。佐々木蔵之介が光っていた。

宇宙船のラストシーンは、『2001年宇宙の旅』を彷彿させた。というか、もっと古い『宇宙戦艦ヤマト』へのオマージュのような気もした。これ、吉田監督の嗜好が入っていた?隅々に監督の三島由紀夫へのオマージュと同時に、「『美しい星』を現代化するんだったら、ここまで外してみてもいいでしょ?」ってな遊びゴコロを強く感じた。