yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手、ショパンの「バラード1番」の演技を「序破急」で読む@「Fantasy on Ice in Kobe」2017年6月9日

神戸での「ファンタジーオンアイス」。羽生結弦選手が戻ってきてくれた。ファンの方々の狂喜乱舞するのも納得。次の機会には私もなんとかチケットを入手をしたい。

「ファンタジーオンアイス」、幕張のものと神戸のものをyoutubeで見ることができた。感謝。この記事は二週間前に書いていたもの。エディトするつもりで、なかなか完成できなかった。とにかく素晴らしいパフォーマンスで、何度も見返し、なんとかその芸術度の高さを汚さない評を書きたいと思っていた。彼のあのパフォーマンスに匹敵するレベルとまでは行かないまでも、後で見返して恥ずかしくないものをと思っていた。そんな厚かましいことを考えていたら、永遠にこの記事が完成できないと悟り、今続きをまとめている。

羽生結弦選手、来年2月韓国で開催される冬季オリンピックでの曲に何を使うのかというのが、もっぱらの関心事だった。このファンタジーオンアイスでSPの曲がショパンの「バラード1番」であると披露された。

この曲は2014-2015年シーズンのSPで使われたもの。加えて15年12月の「グランプリファイナル」で世界歴代最高の110.95点を叩き出した曲でもある。演奏者はツィマーマン。ショパン弾きとしては、とくにこのバラードでは、No.1の呼び声の高いピアニスト。私も彼のものが好き(ポリーニを偏愛的に好きな私でもバラードはツィマーマン)。硬派のポリーニに比して、女性的な繊細さのツィマーマン。ところが、繊細さの権化と思わせておいて、最終章では激しい心情の吐露が。パッションのクライマックス。この緩急の呼吸が自在。それはショパンそのもの。不安定さと、その不安定を逆手にとるしたたかさと。その微妙なバランスを、ツィマーマンは立ち上がらせる。最終章のあのダイナミズムは「繊細」を裏切り、ぶち破るもの。その「裏切り」を表現できるフギュアのパフォーマーは羽生結弦選手をおいてはいない。

ただ、私はフィギュアスケートの技術的なことは不如意なので、それをさし引いてお読みいただければ、幸いである。解説等を参考にさせていただき、なんとかパフォーマンスを追った。

以前の彼の「バラード1番」のパフォーマンスも完成度が極めて高いものなのに、それを再度使うとなれば、どう以前のものを超えるかが課題だろう。今回比べてみて、さすがだと感じ入った。よりシャープに、よりパワフルに、そしてより繊細になって、表現に一層の磨きがかかっていた。以前のもこれを超えるものはないと思わせる演技だったのに、今度のはそれを軽々と跳び超えてしまっていた。何よりも、客との連携というか、インターアクティブな掛け合いが飛躍的にレベルアップしていたように思う。

それと、もう一つ強く感じたのが、能楽の「序破急」を推測させる編成になっていたこと。これは私の勝手な想像かもしれないのだけど、能の舞台をご覧になったり、情報を採取されたのではないだろうか。特に能の舞についての。というわけで、以下、私の「妄想」と思い、読んでいただきたい。演技用に編集されたショパンの「バラード1番」は、まさにこの序破急がそっくりそのまま当てはまっているように感じた。一応「序破急」の大まかな説明を挙げておく。

「序」は比較的ゆっくりと静かに、滑らかに始まる。自由にたゆとう感じ。「破」からくっきり、軽やかな流れになって曲想が展開する。「急」で流れは加速され、激しくなって最終局面に至る。

そして羽生選手の「バラード1番」。

序 
滑らかに音楽が始まる。冒頭に4回転ループ。昨シーズンのEX曲、「Notte Stellata」を思わせるシットスピン。この姿勢から瀕死の白鳥が蘇り、生き生きと翼を羽ばたかせる様を描く。「あぁ、ゆづが帰ってきた!」、そんな感慨を持たせる情緒たっぷりの滑り。

破  
音楽はゆっくり目で、序の繰り返し。サクセション。美しいキャメルスピン。と、変調が。次第に音楽が早くなる。でも優しい情感はそのまま。多彩なスピンがそれをサポートする。やがて、音楽ゆっくり、たゆとう感じになっていく。3回転アクセルが入る。音楽、速くなる。まさに「破」。「急」へと繋ぐ部分。ここで4回転トゥループ―3回転トゥループ。
   
急 最終局面(クライマックス)
調子が急展開。ステップの過激さで攻める。無駄な動きなし。シットスピンからクロスフットスピン、キャメルスピン、A字スピン等の多彩なスピンでドラマチックに決める。スピンを駆使して、クライマックスへ持ち込む。

この一連の序破急には無駄無意味な動きが一切なかった。身体が単に滑っているというのではなく、つまりアスリート的な滑りに終始するのではなく、常に何かを表現している。滑っている身体は、滑り手の存在を芸術的高みに至らせる楽器のような役割を果たしている。そのためにこの「序破急」の構成が使われたように感じた。

そしてこの序破急は曲に合わせたスケーティングにも使われていた。能では舞の拍子を囃子方がとる。鼓、太鼓のパン、パンという鳴音が謡の流れに刻印を押す(分節する)。羽生結弦選手のスケーティングの流れの中では、スピンがその刻印を押す役割をしているように感じた。それによって、序破急に則った演出効果がより明瞭になる。立ち上がってくる。また、目立ったのが腕の振りの美しさ。これはバレエのものでもあり、能のものでもある。

そういう演出を効果的にするための羽生選手の身体的な条件である身体能力の進化。それがこのショーの中でよりくっきりと打ち出されていたように思う。それがジャンプのテクニックを支えていた?スタミナも向上したはず。加えて精神的な余裕も感じられた。また、演技力が一段と「成熟」している。より大人になって、曲への理解が深化したのだろう。とはいえ、そこは羽生結弦さん。どこまでも美しい。あんなにピュアで若いのに、でもどこか老成の片鱗が。と、思わせておいて、やっぱり「少年」が滑り終わったあの最後の姿勢に、その表情に凝縮されていた。まるで時が止まったかのような錯覚が。じっくりと、しみじみとその姿が沁み渡った。

その瞬間をアリーナで共有はできなかったけど、それでも「事件」として私の中に刻み付けられた気がする。