yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

R・シュトラウス作『ばらの騎士』METライブビューイング2016-2017@神戸国際松竹6月14日

「METライブビューイング2016-2017」の最終作品となる『ばらの騎士』。NYでは5月13日に録画されたもの。フレミングとガランチャ、10年以上に渡っての二人の当たり役だったそれぞれの役を「卒業」するということで、メトロポリタン歌劇場も6階までびっしと観客が詰まっていた。壮観。と同時に、彼らの一人一人が二人の「卒業」を万感をこめて見守っているのがひしひしと伝わってきた。思わずジーンとなった。

以下がその演者一覧と公式サイトからの解説。

指揮:セバスティアン・ヴァイグレ 
演出:ロバート・カーセン  新演出

キャスト
元帥夫人 ルネ・フレミング
オクタヴィアン エリーナ・ガランチャ
ゾフィー エリン・モーリー
オックス男爵 ギュンター・グロイスベック
ファーニナル マーカス・ブルック
イタリア人歌手 マシュー・ポレンザーニ

年下の美青年との恋に燃える美しき元帥夫人!忍び寄る「時」が元帥夫人の心に影を落とす時、ドラマが始まる…。 絢爛甘美な音楽と心とろかす言葉に彩られた大人の名作が、天才演出家R・カーセンを迎え、理想のキャストで新制作!METの名花R・フレミングの元帥夫人、世界が恋する花形メゾE・ガランチャの美青年オクタヴィアンは夢の顔合わせ。ドイツ・オペラの達人S・ヴァイグレの指揮が束ねるゴージャスな音の花束で、極上の陶酔を。

ハプスブルク王朝下のウィーン。元帥夫人マリー・テレーズは、年下の青年貴族オクタヴィアンと情事を重ねていた。ある朝、逢引の余韻に浸っている夫人の部屋に、従兄のオックス男爵が訪ねてくる。成り上がり貴族の娘ソフィーと婚約したオックスは、婚約のしるしである「銀のばら」を婚約者に届ける青年貴族を紹介してほしいと頼みに来たのだった。ふと、いたずら心を起こした元帥夫人はオクタヴィアンを推薦するが、「銀のばら」の使者としてゾフィーのもとを訪れた彼はゾフィーと恋に落ちてしまい…。

もっともこちらの心の琴線に触れたのはガランチャのオクタヴィアン。どう考えても無理だろうと思われるところ、青年に移って行く過渡期の17歳(!)の少年を無理なく演じていた。昨今のオペラ歌手、歌唱力がすごいのは当たり前。シェイクスピア劇役者顔負けの演技力を持っている。ガランチャはラトビア出身。音楽家の両親のもとに生まれ、幼い頃から徹底した音楽教育を受けている。だから音楽と一体化していた。それ以上に彼女が際立っていたのはその演技力。歩き方も身のこなしもごく自然に若い男性のもの。とくに拗ねて見せるところなんて、心理にも踏み込んで演じていた。幕間インタビューの際、「なぜそこまで男の子をうまく演じることができるのか?」という質問に、「普段から観察しているから」と答えていた。江戸時代の歌舞伎女方芳澤あやめも同様のことを言っていたっけ。単に「みている」という以上に、強烈なプロ意識がある。だからこその、あの安定感。

強調したいのは、アンドロジナスな魅力が際立っていたこと。私は見るまでは半信半疑だった。でも納得させられた。これな無い物ねだりではあるのだけど、もう少しあの年代特有の不安定感があれば完璧だった。それにはやはり実年齢が関係しているのだろう。だからこその役からの「引退」だろう。ただ、ここまで演技できる女性歌手がいるのかどうか。次のオクタヴィアン選びは大変だと思う。

それは元帥夫人を演じたルネ・フレミングにもいえるかもしれない。演技力の卓越。細かい表情のひとつひとつがマリー・テレーズの心の裡をあらわにしている。シネマ版にすると、それが実際の舞台よりもより目立つ。マリー・テレーズは32歳という設定であり、フレミングの実年齢ではかなり無理がある。シネマ版なら尚更に。しかし、それを差し引いてもこれ歴史に残る「元帥夫人」になるだろう。オクタヴィアンに別れを告げるときのあの微妙な表情は、他の歌手だと「見え見え」の演技になるだろうけど、彼女のものは陰影があった。最終場面ののきっぱりと思い切った風情が悲しげで、それでいて崇高な感じもあって、すばらしかった。

もう一人の立役者、オックス男爵はロバート・カーセンの新演出によってより、複雑なキャラになっている。ギュンター・グロイスベックはそれをよく理解し、新オックス像を立ち上げるのに成功していた。ほぼ全編出ずっぱり。しかも歌唱部だけではなく、身体的にもものすごい活動量。それを大汗をかきながら、演じきっていた。毎晩これだと大変だろうと、同情してしまった。元の演出だとこの役はコミックリリーフ的な道化役らしい。それはそれで観てみたい。でもこのカーセン演出だと、より肉感的な男として、リアルな男として描かれているわけで、その方がグロイスベックのニンにあっていたように思う。

強烈な三人の主要キャラクターに比べると、ゾフィーを演じたエリン・モーリーはいささか凡庸な感じが。透き通ったソプラノの声は高音部では球を転がすようで、綺麗なんだけど、それ以上のものがない。まあ、新しい演出がそういう風になっていたのかもしれないんですけどね。陰影がないというか、扁平というかそんな感じ。登場人物すべてが何か大事なものを失うのに、彼女のみが「漁夫の利」(?)を得るわけですよね。大人の女性と小娘(?)の対決。やっぱり勝利を収めるのは小娘の方。そのあたりを見届けざるを得ない観客の「意地悪い視線」を一層煽り立てる何かが欲しかった。歌手が本業だから、そこまで望むのは酷ではあるんですけれど。

この演目は正統派オペラとはかなりずれている。『こうもり』と同じく、軽妙、洒脱さが売りだろう。その軽やかさは音楽によっても強調されている。シュトラウスの真骨頂。演出がそれをどこまで生かせるかというのもみどころではある。カーセンのそれは、軽妙さは残しつつも、ちょっと重さを加えていた。いかにも三文小説的な、年代の異なった男女の恋愛を描きつつ、それをあくまでもウィーン社交界の枠に収め切る。スパイスは「若さの喪失への諦観」かもしれない。描かれている社交界の軽さが、それによって、陰影ができる。重くなる。でも決めはやはりオペレッタの軽さ。初演時、「大衆迎合的」と非難されたらしいけど、まさにそれこそがオペレッタがオペレッタである所以だと思う。だからその軽さの中にいかほどのスパイスが効かされているかがみどころになるのだろう。

METのライブビューイングではフレミングが幕間のインタビュワーになることが多いけど、今回はイタリア人歌手役だったマシュー・ポレンザーニが担当。隙なくこなしていた。声もすばらしい。

そうそう、大傑作な場面を忘れていた!最終場の乱痴気騒ぎのとき、オックス男爵の鬘がとぶ。現れたのはツルツルのハゲ頭。どこへ行ったのかわからない鬘を探すオックス。お腹を抱えて笑った。ギュンター・グロイスベックのサマが実に見事。慌てぶりも、そして見つけた鬘を被った時のちょっとばつの悪そうな表情も。この大椿事にもめげず、横暴の限りを尽くすオックス。でも鬘事件の所為で、どんなに威張っても滑稽さが募るだけ。お気の毒。これ、大衆演劇によくあるシーン。こういう「おふざけ」をさりげなく入れ込むロバート・カーセンの演出の洒脱に唸った。