yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

映画『花戦さ』@TOHOシネマズ西宮6月8日

東映公式サイトからの情報が以下。

【脚本】
 森下佳子
【原作】
 鬼塚 忠「花戦さ」(角川文庫刊)
【音楽】
 久石 譲
【監督】
 篠原哲雄
【キャスト】
野村萬斎   池坊専好
市川猿之助  豊臣秀吉
中井貴一   織田信長
佐々木蔵之介 前田利家
佐藤浩市   千利休

映画のCMが以下。

戦国時代末期、花と町の人々を愛するけったい(=風変わり)なひとりの男がいた。その名は池坊専好、京都の花僧でいけばなの名手。人の顔も名前もなかなか覚えられず、とにかく花をいけることに執着し、名誉や権力などまるで眼中にないこの男が、時の天下人・豊臣秀吉に一世一代の大勝負を挑む。この痛快エンターテインメント時代劇に、狂言、歌舞伎、映画界から才能が集結。あっと驚く“エンタメ異種格闘技戦”が勃発する。

以下、東映サイトから拝借した「ストーリー」。

• 十六世紀。戦乱に荒れ果てた京の都に、花を生けることで世の平穏を祈り、人々に生きる希望を与えんとする、「池坊」と呼ばれる僧侶たちがいた。

やがて織田信長による天下統一を前に、戦国の世も終わりを告げようとする頃、「池坊」の中でもその生ける花がひときわ異彩を放つ池坊専好は、信長の所望で、「大砂物」なる大がかりな生け花を披露するため、岐阜城へと向かう。

そこで専好は、千宗易という不思議な男に出会うが、巨大な松を中央に据えた大砂物は思わぬ失態を招き、信長の怒りを買う。しかしそのとき、軽妙に事態を取り繕い、専好を救ったのは、信長に仕える若き武将、木下藤吉郎だった。

それから十二年。信長は本能寺の変によってすでにこの世を去り、天下はかつての木下藤吉郎豊臣秀吉の手に委ねられていた。

期せずして池坊の執行となった専好だが、その立場ゆえに、迷いながらも自らの奔放な「花」を封印していた。そんなある日、今は豊臣秀吉の茶頭として、利休を名乗る宋易と再会する。
二人はしだいに心を通わせ、いつしか真の友として、互いが目指す「美」の世界を高め合う関係となっていく。専好は利休によって、自らが求める「花」の心をようやくつかみ始めるのだった。

しかしやがて悲劇が訪れる。天下を握ってから人が変わったように驕り高ぶる秀吉に対し、諌めるように自らの茶を貫き通そうとした利休が、その頑なさゆえに、秀吉に命じられ、自害に至ったのだ。
打ちのめされる専好。さらに悲劇は続いた。秀吉の乱心は嵩じ、罪もない街の者たちまでが、次々と命を奪われていく。

ついに専好は立ち上がった。時の最高権力者太閤秀吉に戦いを挑む専好。かけがえのない友、利休の仇討のため、彼が手に取ったのは、刃(やいば)ではなく「花」だった。それこそが、専好にしか成しえない「戦さ」であった。

主役の池坊専好役の萬斎、所作がことごとく決まっている。きれい。さすが狂言師。専好というより萬斎。どこまでも萬斎。浮世離れした花坊主というより、隙のない狂言師萬斎。秀吉役の猿之助、予想に違わずうまい。彼は以前、映画界から時代劇が消つつあるのを嘆いていたので、こういう企画には大喜びで参加していると思う。秀吉の複雑な人格をごく自然に演じていて、文句なし。自然といっても、そこには常に自身をみはる第二の目があるんですけどね。それも計算ずくの。彼のその「余裕」がおかしみを生んでいる。『参勤交代リターンズ』での吉宗役もおかしかったことを思い出した。彼のアプローチは萬斎と真逆。秀吉という役に猿之助の片鱗も感じさせない。完全に自我を消し去っている。いずれも古典芸能出身者。<萬斎 vs. 猿之助>と比べて、見てみても面白いかも。

そうそう、数少ない女性の登場人物。れん役の森川葵が良かった。野生的、活動的。それでいて絵のみが自己表現の手段という影のある少女。襞のある役を見事にこなしていた。少女らしく、目がとてもきれいだった。

佐々木蔵之介前田利家も良かったけど、やっぱり佐藤浩市の利休が良かった。この人がこんなに「静かな茶人」を演じれるんだと感動。ギラギラ感が付き纏っていたので。そういえばお父上の三國連太郎も利休役で映画、『利休』に出演だったんですよね。

この映画、面白かったし、観客動員も悪くはなさそうなので、とやかくいうことはないのだけれど、以下に全体評を。原作を読んでいないので、映画のみからの判断とお断りしておく。まず、東映のキャッチコピーが「各界のトップが集結し魅せる、“本物”の日本文化」。ここにかなりのいかがわしさを感じてしまう。「本物」をこう安っぽく使っちゃダメでしょ?たしかに、「いままでなかった時代劇エンターテインメント!」を目指すという姿勢はよく理解できる。でもせっかくここまでの役者を揃えたのだから、もう一味効かせて欲しかった。

「戦国時代において京都の町衆である六角堂にいる花僧が、彼らの代表者として、時の権力者である豊臣秀吉の乱心に、刃ではなく、花をもって仇討するこの物語」なんていう、ヒューマンドラマはお腹いっぱい。ヒューマンドラマにこだわってしまうと、町衆が秀吉に殺戮されるという理不尽が、どこか薄っぺらくなってしまうる。でもね、薄っぺらさを保つことによって、エンターテインメント性を維持するというのはわかるんですよ。それならもっとキッチュ度をあげてみてもよかったのでは。映画というメディアの利点を最大限活かして。「いかがわしさ」をもっと膨らませても良かったのでは。

と、書いてきて、役者の方が脚本よりも上を行っていたのかもしれないと気づいた。萬斎のあの顔の誇張(しつこいほどのドアップ)も、彼の戦術なのかもしれない。どこまでも萬斎を際立たせるあの戦術。それこそ脚本との「戦さ」?また、猿之助のあの誇張した演技もそれでゆくと理解できる。その点、他役者はしっかりと脚本、演出路線を堅持した役づくり。それからは外れていない。萬斎、猿之助のしたたかさをみた気がする。