yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

新作歌舞伎『夢幻恋双紙(ゆめまぼろしかこいぞうし)赤目の転生(あかめのてんせい)』@TBS赤坂ACTシアター4月14日

25日が千秋楽。私が見たのは4月14日なので、だいぶん日が経ってしまった。以下に「歌舞伎美人」からの公演概要を。

蓬莱竜太 作・演出

<配役>
太郎   中村 勘九郎
歌    中村 七之助
剛太   市川 猿弥
静    中村 鶴松
末吉   中村 いてう
源乃助  中村 亀鶴
善次郎  片岡 亀蔵

<みどころ>
 時は江戸時代。気が弱くぱっとしない性格の男、太郎(中村勘九郎)が、隣に越してきた歌(中村七之助)に恋をした。寝たきりの父と、酒と博打に溺れる兄源乃助に苦労している彼女を何とかしたいを思った太郎は、決して不幸にしないと誓って歌と夫婦になる。
 しかし、数年後、太郎は仕事が上手くいかず引きこもり状態となっていた。逃げ腰の太郎に歌が告げる。「あなた変わらないと。尊敬させて」。その言葉に反発して家を飛び出し、酔っ払ってふらついている太郎。そこに源乃助が現れ、太郎は殺されてしまう。が、気づくと結婚前に時間が戻っていた。太郎は生まれ変わったのである。それも屈強な男に。
 そして、今度こそ歌を幸せにすると誓う太郎。愛した女を幸せにするために転生を繰り返す男の運命は──!?

「こりゃ、一体なんじゃ?」というのが正直な感想。ネット検索をかけるとけっこう評判は良いようで、こういう記事を書くのはためらわれるんですけど。でもね、やっぱりこれはないですよ。「転生」なんて大仰なことばを使わないでいただきたい。「転生」なんてのは当舞台のように軽いモノじゃないですから。その辺りを知りたければ歌舞伎の古典はもちろんのこと、小説なら三島由紀夫の『豊饒の海』あたりをしっかりと読み込んでください。仏教にまでそれを広げろとは言いませんから。

この軽さ、浅さは今風といえば今風なのかも。ゲーム感覚で書かれた脚本。「ゲーム的」といえば「劇団☆新感線」の舞台にもそれを感じるけれど、あちらこんなに浅くはない。(ゲームのように)展開する舞台をみる醒めた視線を感じる。「エンターテインメントの粋」ってな衣を着てはいるものの、生の不条理性を際立たせるのに成功している。だから新感線ファンはこの舞台をappreciate はしないだろう。あちらも法外な木戸銭をとるけれど、一応納得できる。でもこの舞台にこのチケット代はどう考えても高すぎる。これをみて歌舞伎の新しい形だと思われては困る(なんて、お節介なんですけどね)。

もう一つの問題は、あざといところ。「ドラえもん」が見え隠れするのはいいとして、「またこのパターン!?」っていう予測可能なオチを入れ込んでくること。2度目、3度目の「転生」なんてのも、あまり意外性なし。最後のものは「ああ、そう来たか、やっぱりね」ってミエミエ。それを勿体つけて「あっと驚くオチ」なんて宣伝するんですからね。「どれほど見る側の知性をバカにしているの」って言いたくもなります。

脚本が長すぎる。第一幕、第二幕は不要。これを後の幕に入れ込んでも支障はなかっただろう。だらだらと時系列で「転生」を描くことにどういう意味があるんだろう?人物も同じなら、時代も背景も同じ。幕構成の工夫が感じられなかった。いかにも芝居の素人の書いたホン。勘九郎を始め役者は、新しい歌舞伎の場(いのうえや串田の舞台)をいくつか踏んでいるから、演出の際これを変えることもできたであろうに、残念。

そしてもっと問題は「転生」と「赤目」、それぞれのイミが立ち上がっていなかったこと。転生って、ここでみる限りは単なる意味のない繰り返し。でもその不条理は浮き上がってはきていなかった。もっと軽い。そして浅薄。「赤目」にもどういう意味が込められていたのか、未だに不明。単に「有徴者」である刻印?哲学的になれとまでは言わないけれど、この「使い方」、あまりにも軽すぎません?最後に赤目の「入れ替わり」があり、それが「あっと驚くオチ」になっているらしいのだけど、それなら赤目のイミを明示すべきでしょう?そうじゃなきゃ、「あっと驚く」ことはできませんよ、少なくとも私は。

ハコも問題だった。この赤坂ACTシアター、歌舞伎をやるには大きすぎる。コクーン、もしくはもっと小さな小屋でこういう新歌舞伎はやってほしい。それこそ大衆演劇が乗るような小屋で。

勘九郎七之助にはもっと古典をしっかりとやってもらいたい。こんなものをやるくらいなら、南北をやってほしい。古典が生き残って来たのは、やはりそれらが長い時間に耐える何かを持っていたからですからね。