yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「邯鄲」in 第四十四回篠山春日能@篠山春日神社能舞台4月8日

シテは浅見真州氏。「桜川」のシテを務められた大槻文蔵氏と同年輩。奇しくもお二人は観世寿夫氏のお弟子さん。揚幕から出てこられたときの大槻氏と真州氏の佇まいがとてもよく似ていた。風の精のようにどこか儚げな感じ。でも弱いというのではなく、譲れない存在感がある。つい三日前に観世寿夫さんのDVD版演能「俊寛」と「猩々乱」を見たのだけど、出てこられたときの圧倒的な存在感に驚嘆した。存在感の点で、お二人はやはり寿雄さんのお弟子さん。それにその佇まいが美しい。楚々とした美しさも寿雄さん譲り。

浅見真州氏は上記DVDの「俊寛」にも出ておられる。でも実際の能舞台は初めて。大槻文蔵氏は大槻能楽堂で何度か拝見している。お二人とも七十代。今のうちにしっかりとみておかないと。また、お二人とも「銕仙会」のメンバー。先月は手の骨折のため、予約していた「銕仙会」の例会を見ることができなかった。今月は是非見たい。浅見真州氏、地謡と後見で出演される。

以下、「銕仙会能楽事典」からの演目解説中の登場人物と概要。人物横の名は当日の演者。

シテ 盧生(ろせい) 浅見真州
子方 舞童   茂山慶和
ワキ 勅使   福王茂十郎
ワキツレ 大臣(三人) 広谷和夫
ワキツレ 輿舁(こしかき)(二人) 矢野昌平
間狂言 宿の女主人 茂山七五三
後見  浅見慈一・赤松禎友

小鼓  大倉源次郎
大鼓  山本哲也
太鼓  三島元太郎
笛  藤田六郎兵衛

概要
舞台は中国。悩める青年・盧生(シテ)は、人生の進むべき道を求めて邯鄲の里を訪れ、そこの宿屋で女主人(間狂言)から不思議な枕を借りる。使えばこの世の有り様を悟ることが出来るという枕で、盧生は早速昼寝をする。暫くして勅使と名のる男(ワキ)に起こされ、王位を盧生に譲ると告げられる。盧生はそのまま、大臣たち(ワキツレ)の居並ぶ王宮へと連れてゆかれ、栄華の日々を過ごす。在位は五十年に達し、不老長寿の酒で大宴会が開かれ、御前では童子(子方)が舞を舞い、盧生も自ら舞楽を舞って繁栄を喜ぶ。そうする内に大臣たちの姿も消え、盧生は再び眠りに落ちる。そこへ宿の女主人が起こしに来て、盧生は今までの出来事が全て夢であったと悟り、この世の真理を知って満足する。

この舞台で効果的に使われているのがいわゆる作り物。能舞台では作り物はあまり目立たないように意図されているが(どういえばいいのか、「あまり置きたくはないけど、一応置きます」っという風情)、ここでの作り物は非常に「立派」。件の銕仙会の解説が役に立つ。

本作では、引立大宮(ひきたておおみや)という作リ物が舞台に据えられます。これは、一畳台(いちじょうだい)に四本の柱をさし、その上に屋根をつけたもので、〈鶴亀〉などのように中国皇帝の住まう宮殿として用いられることが多いですが、本作では皇帝となった盧生の宮殿をあらわすとともに、宿屋の寝台としても活用されています。すなわち、序盤で宿屋の寝台として使われていたこの作リ物は、途中から宮殿をあらわすようになり、最後はまた宿屋に戻るというふうに、その役割を変化させてゆくのです。さらに、作リ物だけではなく舞台空間そのものが、現実世界をあらわしたり夢の中の世界をあらわしたりと、本作では自在にその役割を変化させてゆきます。作リ物や舞台空間全体の中に、現実世界と夢の中という二つのイメージが重ね合わされているのです。

普通の作り物よりも「豪華な」作り物。盧生が横たわる寝台から宮殿に途中から変貌する。そして最後にまた寝台に戻る。ただし、観客の目の前の作り物はそのまま。観客は想像の中で、盧生と同じく夢を見ることが期待されているわけである。上の解説にあるように、現実の作り物に夢世界が仮託されているわけで、観客が何かの「働きかけ」をしない限り、寝台は寝台のままで終わる。リアリズムの真逆を行く演出。観客にもそれに対応することが求められる。大掛かりな装置も大道具も使わない。ましてやCGもない。それで、現実界と幻想界との往来をやってのけるこの工夫、改めてうならされる。

三島由紀夫の『近代能楽集』中の「邯鄲」、実際の舞台では一体どういう演出がなされていたのだろうと、想像が膨らむ。現実と夢の往来は、舞台上に設置した部屋とその外の空間の対比を使い、わりと問題なく演出できたのだろうとは思う。手元にある英語版を読み返してみて、以前に読んだときとは違った解釈をしている自分に気づいた。奥の深さというか、一筋縄では行かない複雑さは、能の「邯鄲」と同じ。

能の「邯鄲」。これを演じる(ことのできる)役者は、並の人では無理だと感じた。どこか浮世離れした人、ちょっとぼんやりとした気配の人がいい。そのぼんやりさんが幾層もの衣を身にまとって出てきて、夢の中で出来事に出くわす度にそれらの衣を一枚一枚脱いで行く心持ち。夢から醒める最終場では、あるがままの姿になっている。でも登場時のぼんやりではなくなっている。悟り、それも甚だ辛い自己認識を得てしまったから。

浅見真州氏の盧生はどこか儚げな感じが盧生にぴったりだった。素晴らしかった。これは彼自身のご人徳の高さを窺わせるものではある。ちょっと超俗的すぎるきらいがあったかも。でもそれが能の醍醐味でもあるに違いない。彼も人間国宝になられるべき方。文科省は何をしているんだろう。

大倉源次郎さんの小鼓を聞けて幸せ。今回の囃子方は大鼓を山本哲也氏、太鼓を三島元太郎、笛を藤田六郎兵衛という、これ以上望めない最高カルテット。

子方役の茂山慶和君は茂山逸平さんのご子息。慶和君の「勇姿」を、お父上はずっと後ろの桜の木の下で、食い入るように真剣な眼差しでみておられた。家の芸を継承することの重さをズシリと感じた。

ずっと後ろの、それこそ桜の木の下あたりからスマホで撮った当日の舞台の様子をアップしておく。基本写真はダメだったので、遠景で。