yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

尾上右近がさらっていった「連獅子」@松竹座2月14日夜の部

今日は松竹座で「花形歌舞伎」夜の部を見て、その後山本能楽堂で能、「班女」をみるという強行軍。いずれも全く退屈しないで見通すことができた。2月になってから、連日のごとく能、狂言、歌舞伎と見ているので、レポが追いつかない。一週間経つと、すでに感興が薄れてしまっている。もっとペースダウンすべきなんだろう。消化する時間が必要なのに、消化不良のまま文章にしてしまっているのが口惜しい。レポできないものがいくつもあるのは、もっと口惜しい。

でもこれだけは絶対にレポすべきだと、日付が変わるのを横目に見ながら書いている。それは右近の獅子のみごとさ。「花形歌舞伎」の夜の部の舞踊。舌を巻いた。松也との「連獅子」。親獅子をした松也を喰ってしまっていた。相手方を喰うような派手に目立つ演技を志したのではないだろう。でも、その技の卓越で、獅子の精神の具現化で、先輩である相方を凌いでしまっていた。まあ、松也は松也なりに頑張っていたのだろうけど、芸のレベルが違いすぎた。

松也で気になったのが毛振り。力の出し惜しみをしていたのでは疑うところが何回かあった。右方向に振る時首が十分に回っていなかった。もう一箇所、気になったのが後見のところに行って毛を整える際の体勢。右近は袴の裾を足袋の裏がきちんと見えるようにたくしこんでいたけど、松也はそれがなく、だらしがない感じがした。二人が観客に背を向けているので、いやでも比較されてしまう。ちょっとしたことが大きいことを象徴的に示しているような気がした。

でもね、右近だけでも見る価値が十二分にあるんです。まだチケットをとっていない方は是非とも松竹座へ。とにかく必見です。彼が六代目(菊五郎)の曽孫なんてことを知らなくても、この人が連綿と続いてきた歌舞伎の確固たる環の一つであることは、すぐに判るだろう。この人に注目したのは、2014年7月、歌舞伎座で観た『天守物語』での亀姫役が最初だった。玉三郎に細部まで習ったのだろうけど、彼の個性が確と見えた気がした。天性の才能も。加えて芸の素直さが際立っていた。柔軟さというべきかも。スポンジに水を吸い込むかのごとく、優れた対手の芸を真似て盗む。玉三郎の教えを自身の身体に叩き込んだにちがいない。彼の芸の古風さは、その謙虚さからきているように思えた。でも完璧にまねびながらも、どこか彼の個性が出ていた。古風さと同時に垢抜けたモダンさも感じられた。

2015年10月の歌舞伎座での『文七元結』。これで彼の才能を再確認した。ここでは長兵衛の娘、お久を演じた。おぼこく素朴な、何よりも親思いのお久の人となりが立ち上がってくる演技。それが真に迫っていて、すんなりと彼女への同情が掻き立てられた。「手にあかぎれを作ってる。苦労してるんだね」という、置屋の女たちの言葉がダイレクトに伝わってきた。

そんなこんなで時代を担う女方の最右翼だろうと確信していた。ところが今度の「花形歌舞伎」では、立ちの役ばかり。これにはかなり失望していた。で、この「連獅子」。ここでは女方ではなくても、マスキュリンな父獅子に対し、どこかフェミニンな子獅子を演じてパーフェクト。これがまさに今の彼の役のあり方を表象しているようにも思えて、興味深かった。

この人の巧さでは、立ち、女方ともに演じて行ける役者になることは間違いない。女方だけというより、芸域の幅を広げようとしているのかも。その点で先輩、菊之助と同じ路線を歩むのかもしれない。音羽屋は、菊之助と右近で次代も安泰だろう。