yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

一層の磨きがかかった猿之助の『男の花道(おとこのはなみち)』@博多座2月10日昼の部

これは一昨年5月に明治座でほぼ同じ配役のものを見ている。大衆演劇では昨年、「たつみ演劇BOX」で見ている

遡れば、1994年、今は焼失してしまった大阪中座で、三代目鴈治郎(現藤十郎)で見たのが最初だった。以前の記事にも書いたけれど、私にとって、鴈治郎の加賀屋歌右衛門は衝撃的だった。あの劇中劇の手法、日本の古典劇にもこういうのがあるのだと(今から考えると無知でしかないのだけれど)、やたらと感心した。中座の舞台の上、閉まった幕前で観客に向かい、「恩人が危機にあるので中座させて欲しい」とかき口説くあの口調、その後衣装のまま小走りで通路を後ろへ急ぐ姿、耳に、目に、鮮明に焼きついている。

2015年に猿之助版で見たときはそれとはちょっと違った印象だった。鴈治郎のあの濃さがない分、猿之助はすっきりとした凛々しさが匂い立っていた。鴈治郎が情の深さを描いていたとすれば、猿之助は仁義の篤さをより際立たせていた。どちらの歌右衛門も説得力があり、すばらしかった。

以下、「歌舞伎美人」からお借りした今回の情報。

小國英雄 原案
巌谷槇一 作
石川耕士 補綴・演出


<みどころ>
 昼の部は、日本の演劇史に残る名作『男の花道』と、新作舞踊『艶姿澤瀉祭』の二本立てという華やかな狂言立てです。

 『男の花道』は、昭和16(1941)年に公開され、大ヒットした長谷川一夫主演の同名映画(小國英雄脚本、マキノ雅弘監督)を舞台化した作品。舞台での初演は、同37(1962)年の大阪新歌舞伎座で、主演は映画と同じ長谷川一夫でした。
 江戸時代の人気女方、加賀谷歌右衛門と名医・土生玄碩(はぶげんせき)の友情物語。二人とも実在の人物がモデルで、明治時代にはすでに講談の題材となり人気を博していたといいます。
 文化5年、大阪・道頓堀。中の芝居では歌右衛門の芝居が大当たり。しかしシーボルトからオランダ医学を学んだ名医、土生玄碩は、歌右衛門の目が悪いことを察知します。次第に目が見えなくなってくる歌右衛門は絶望のあまり死のうとしますが、玄碩の手術で完治、二人の間に厚い友情が生まれます。4年後、名実ともに名優となった歌右衛門は舞台の途中、玄碩の危急を知り…という展開です。
 猿之助による初演は平成22(2010)年5月の名古屋・御園座。命をかけた友情という古今東西、普遍のテーマをブラッシュアップし、娯楽性豊かな新しい歌舞伎作品として現代に蘇らせたのです。


<配役>
一昨年5月に明治座で見たときの配役を並列しておく。
           今回      2015年版
加賀屋歌右衛門    猿之助     猿之助
田辺嘉右衛門     門之助     愛之助
山田春庵       男女蔵     男女蔵    
加賀屋歌五郎     巳之助     亀鶴
富枝妹雪乃      米吉      笑也
加賀屋歌助      隼人      壱太郎
按摩杢の市      弘太郎     弘太郎
松屋忠兵衛      寿猿      寿猿
万八の女将お時    笑三郎     秀太郎
山崎順之助      猿弥      猿弥
田辺妻富枝      笑也      門之助
加賀屋東蔵      竹三郎     竹三郎
土生玄碩       平岳大     中車

2015年に見た折に、目に焼きついたのは何といっても金谷宿での猿之助だった。湯上がりのさまが匂い立つようだった。あのシーンが、黒田清輝の「湖畔」のように、一幅の絵でありつつも動きのあるものとして浮かび上がる。と思って、今回の筋書きを見ると、なんとこの場面は長谷川一夫の照明、衣装、化粧の工夫、秘伝をそのまま借りたのだと猿之助自身が述べている。長谷川の映画に出演した竹三郎の「指導」を受けたという。うれしくなった。

夜の部の『雪之丞変化』も長谷川一夫の十八番。さらに付け加えるなら、いずれも大衆演劇の十八番でもある。猿之助の貪欲なまでの他の手法を「盗み取る」意欲が感じられる。でもそこは猿之助、ギラギラ感がなく、あくまでも理知的。隅々まで分析、再解釈を施した上で舞台化する。小劇場の一部のようなあまりにも衒学的なところに淫してしまわず、あくまでも冷静に計算、それでいて「大衆芸能」、エンターテインメントであるところにこだわり続ける。ブレない。この姿勢を貫くのがただ、ただ、あっぱれ。客に「親切」なのは、今回新たに除幕に「芝居前」を付け足したところにも表れている。

今回のヴァージョンの最大の見所は、土生玄碩に平岳大を起用したことだろう。前に見た中車とはかなり違った印象。それぞれに個性的で面白い。平の玄碩はどこまでも大らか。中車が描出していた屈折感がない。西洋医学を学ぶというのは当時としては異端。それを「屈折」として描いていたのが中車だったとしたら、平のは異端を先端として、揺るぎない「強み」として描いていたところ。大柄な体躯がそれを補強している。彼自身が医者を志したという経験もあるかもしれない。軸はしっかり、そして明るい。こだわりのなさ、carefree感が新しい玄碩像を提出してくれたと思う。

個人的好みでいうと、田辺妻富枝の妹雪乃が米吉だったのが良かった。かわいいし、お綺麗で言うことなし。以前は笑也だった。今回笑也は妻富枝だったのだけど、嫉妬ぶりの様がおかしいやら、バカバカしいやら。お見事でした。こういうのはやりすぎると下品になるけど、彼のは絶妙のバランスを保っていた。思い切り笑わせていただきました。

ことほど左様に、今回は前回以上にそれぞれの役者のニンに合った役が割り当てられていて、存分に楽しめた。加賀屋東蔵役の竹三郎、按摩杢の市役の弘太郎、山崎順之助役の猿弥と前回同様申し分のない配役。歌右衛門の弟子役の巳之助、隼人がその分、出番、見せ場があまりないのが残念だったけど、それは仕方ないのかも。

これも個人的に嬉しかったのは、万八の女将お時が笑三郎だったこと。秀太郎のようなくどさがないのが、逆に好ましかった。笑三郎という役者さん、大した出番がなくてもやっぱり目立つ。なんでこんなに品が良く素敵なんだろうって、見ほれていた。