yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎のストイシズムにうたれるシネマ歌舞伎「阿古屋」@神戸国際松竹1月25日

「阿古屋」は舞台で以前に二回見ている。2012年6月に京都南座で、2015年10月歌舞伎座で。というわけで、このシネマ版が玉三郎「阿古屋」の三回目。このシネマ版は2015年歌舞伎座で録画されたもの。芝居自体に新しい発見のようなものがほとんどなかったけど、改めてだめ押し感を持ったのが玉三郎のストイシズム。

自身を一つの芸術作品として、いかに完成度の高い「モノ」を見せるか。身体の非情なまでに徹底したモノ化。それを可視化させるのが人形振りだった。そのまま文楽人形を模していた岩永左衛門(亀三郎)のみならず、菊之助演じる秩父庄司重忠にも適用されていた。岩永は後ろの黒衣が遣っているように演じられていたから、すぐそれと判るけど、重忠には黒衣が付いていない。でも終始表情を変えない菊之助も、やはり人形。身体の動きにも細心の注意が払われていた。生の肉体から滲み出る生々しさを極力排除していた。ここまでできるのは、さすが菊之助。彼のストイシズムが玉三郎のそれと共振し合っているように映った。

随所に見られた玉三郎が採用した「人形振り」戦略。ご本人が一番のお手本。まず終始無表情だった。唯一、表情を表したのが重忠に「お咎めなし」と言われたとき。でもその反応も人形のように完全に「型」になっていた。歌舞伎の型というより、人形の型。

人形振り戦略の要諦は、役との距離を徹底させるということだろう。生身の身体をいかにねじ伏せて、型にはめる(mold)か。もちろん「型」になりきるのは不可能。でもそれに近づくことで、生身の人間の「内面」が限りなく無化されて行く。そこに垣間見える恐ろしい深淵。

となると、「琴責め」で使われる楽器の演奏云々は重要なのではないのだろう。それはあくまでも彼の身体が楽器と一体化する、つまりモノ化するのを見せる手段。こういう「解釈」を玉三郎がしたということだろう。優れて近代的な解釈。これは歌右衛門が採ったやり方とは、真逆だったのでは。歌右衛門のそれを見ていないので、比較できないのが残念だけど。

すでに舞台で二度も見ていた「阿古屋」。シネマ版を見るかどうか迷っていたら、「メイキングのところがすごい」と教えてくださる方があり、出かけた。実際、メイキングのところが最も印象的だった。一つの舞台を作り上げるのに、役者のみならず、「裏方」の方々が深く関わっていることがよく解った。

玉三郎が仕切る稽古風景。彼のパーフェクショニストぶり。稽古をつけられる役者たちの様子。忙しく動く玉三郎のお弟子さんたち。太夫さん、三味線の方達の様子。大道具、小道具の手配、設置をする裏方の方々。玉三郎が舞台で使う楽器の手入れをする方々。下座の担当者たちの演奏ぶり。すべて観客には見えない人たちとことごと。みんなが一丸となって一つの舞台が成立していることが、見えるし分かる。裏で舞台を支える方たちの様子や話を見聞きすることで、舞台を身近に、よりリアルに感じることができる。METのシネマビューイングでは「メイキング」部が挿入されていて、これをシネマ歌舞伎でも採用したらいいのにと思ってきたので、今回はその希望が叶った。

そうそう、驚いたこと。観客数が劇的に増えていた。ここ2年の間に徐々に増えてはいたけれど、今回の増え方はすごかった。一般に広く認知されてきたということだろう。これで実際の舞台を見ようと考える人も増えるはず。

一応、松竹のサイトに載っている情報を以下にアップしておく。

配役
遊君阿古屋:坂東 玉三郎
岩永左衛門:坂東 亀三郎
榛沢六郎:坂東 功一
秩父庄司重忠:尾上 菊之助

みどころ
高度な技術、表現力、美しさが必要なことから、演じられる人間が極めて少ない演目『阿古屋』。日本を代表する女方 坂東玉三郎が阿古屋を演じ多くの観客を魅了した公演が、シネマ歌舞伎作品としてスクリーンに登場!

『阿古屋』は通称「琴責め」とも言われ、琴・三味線・胡弓の三曲を阿古屋自ら演奏するという趣向が眼目の演目です。3つの楽器の弾き分けをはじめ、傾城の気品や色気、景清を想う心理描写も表現しなければならず、女方屈指の大役と言われる阿古屋。

今回は舞台映像だけでなく、舞台裏で『阿古屋』という作品を支える人々の様子をとらえた特別映像もたっぷり収録。最高級の遊女である傾城の華やかな衣裳に楽器の演奏と、視覚的にも聴覚的にもお楽しみいただけます。

絢爛豪華な舞台を映画館の大スクリーンでご堪能ください。