yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『母恋時雨傘』劇団花吹雪@梅田呉服座1月19日夜の部

このお芝居は初見。さすが「花吹雪」と思わせるひねりの効いたプロット。それにお笑い満載。ぶっ飛びぶりがすごい!ここを見ると、他劇団が色褪せて見える。退屈してしまう。これが困ったこと。大衆演劇ならではの「外し」を随所に入れ込みながら、それでも王道を行く「正統派」。その力量が並々ならないことは、昨年11月の新開地公演で実証済み。「華やかで楽しい」という評があっても、芝居のレベルの高さを言う人があまりいないのが残念。とにかく質が半端なく高い。必見。

今日の『母恋時雨傘』は色々な芝居のコラージュ。先日、東京の国立劇場でコラージュの見本のような歌舞伎芝居『しらぬい譚』を見たばかり。大衆演劇でここまで凝るのはあまりない。私が見てきた範囲では劇団花吹雪のみ。

今日は恋川純弥さんゲスト。重要な役どころを担当されていた。大まかな筋は以下。誤り等あれば、ご容赦。

巡礼の母娘(かおり・あゆ)が茶店で一服している。そこに土地の代官の手下(愛之助・梁太郎)がやって来て、娘を連れて行く。なんでも最近出没している「八百屋お吉」とよばれる盗賊を召し取らなくてはならないのに、とんとそれらしき者が見つからない。娘をそれに仕立てて、代官に差し出そうという魂胆。

娘が連れてゆかれるのを目撃、残った盲目の母に娘を連れ戻すと約束したのが、見慣れない二人連れ。一人は若い、美しい娘(春之丞)とその連れ(純弥)。娘はあの弁天小僧菊之助と同じ扮装。これで、この芝居が大衆演劇によくある「弁天小僧ヴァリエーション」だとわかる。娘は実は男で、「番頭」と呼ばれているその連れは盗賊一味(歌舞伎の『弁天小僧』では南郷力丸に当たる)。ここで観客にはこの二人連れこそが手配中のお尋ね者だとわかる仕組み。

老母に娘を取り返すことを請けあった二人、代官(京之介)のところに乗り込む。この代官のぶっ飛んだ化粧と衣装に唖然。「バカ殿」をさらに金ピカにした感じ。客席、大笑い。この助平代官、美しい娘にコロリと騙され、「番頭」に50両を渡す。その間の娘と代官の応酬が笑えます。楽屋落ち満載。

娘はとうとうその正体をあらわし、かどわかされていた娘を取り返す。その時本当の六連発を使うので、代官一味は手が出せない。

盲目の母とその娘はこの二人に感謝する。母から巡礼をするきっかけになったのが、出奔した息子、吉五郎を探すためだったと聞いた「番頭」、その息子が自分の連れのお吉だと気づく。やって来た偽弁天のお吉も自分がこの母の息子であることを認める。母娘に50両を渡し、故郷に帰るよう説得するお吉ならぬ吉五郎。ところが、母はそれが息子だと気づいてしまう。否定する吉五郎。

そこに取手がかかる。母娘を逃そうとする吉五郎。そこに連れの「番頭」がやって来て、吉五郎に母娘と一緒に行くように諭す。「今日から俺が八百屋お吉だ」と言って。彼に手を合わせつつ、母娘と去って行く。取手とやりあっている「番頭」にスポットライトが当たったところで幕。

「弁天小僧」のヴァリエーションは大衆演劇ではしばしばかかる。例の浜松屋での「口上」もそのまま使われることが多い。この花吹雪の芝居では口上は口上でもそのものでない。そこが新しい。筋も「弁天」を下敷きにしつつも、「親子」の情愛に重点が置かれている。「弁天」を換骨奪胎、大衆演劇のセンチメントに沿うように新しいストーリーに仕立てたということだろう。

もっとも新しいと唸ったのは幕切れ。おそらくは逃げ場を失って、取手に取り押さえられ、最期を迎えるであろう純弥さんが、上からのスポットライトに照らされて、毅然と見得を切るという場面。これ、良いです。感動的です。でもお涙頂戴でないんです。いわゆる大衆演劇芝居を超えています。こういうの、大好き!

舞踊ショーもお芝居に見合って、素敵だった。別記事にする。