yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能楽講座「能は面白い」—<葵上>@京都観世会館12月25日

能の学校教育への普及を目指し、ワークショップを定期的に開催されてきている「伝統音楽普及促進事業」主催のワークショップ。教員教育関係者が対象。主催者は、文化庁、京都府、同志社大学創造経済研究センター、伝統音楽普及促進事業実行委員会。以上はこのワークショップを主として仕切られた能楽師の河村晴久氏のfacebookからの情報をアップしたもの。

プログラムの内訳は以下。
1. 挨拶
2. <能>とは
3. <葵上>をひもとく
4. ワキ方ワークショップ
5. シテ方ワークショップ
6. 囃子方ワークショップ
7. 演能<葵上>
8. 能楽師による座談会
9. 質疑応答
10. 挨拶

午後1時に始まり、4時20分に終わった。とても内容の濃いワークショップだった。<葵上>の一部を実際に謡って見る、小鼓を鳴らす真似をして見るなんていう、実技指導もあり、演じる側に模擬的にではあれ立って見ることで、単に客として見ているだけでは見えない景色が広がった。もちろん時間制約があるので、ほんのさわりなのだけど、「演じ手/観客の役割の転換」が能のこれからの見方を変えるであろうという体験だった。参加できたのは、本当に幸運だった。

シテ方、ワキ方、そして囃子方による実技体験が一番の衝撃だった。謡は「うたおう」にも声が出ないし、音程が取れない。息遣いがうまくできない。それを身体になじませながら発声するなんていうのは、無理。囃子も同じく、手がリズム通り動かない。調子も取れない。この体験を通して、あらかじめ予想していたことではあったけれど、能楽師の方々がどれほどの修練を積んでこられているのかが身にしみて理解できた。声帯を含む身体全部を「楽器」にして、内面の感情をそれに乗せて放出させる。あの<葵上>のクライマックスの一つである御息所のセリフ、「思ひ知らずや 思ひ知れ」を全身から絞り出すように「うたう」なんて、普段身体を意識して使っていない私には、至難の技。それを「思い知る」羽目になった。

でも、楽しかった。

西洋音楽の楽譜に当たるものは、単なる「印」というか符牒のようなもの。それがテキストに記されているのみ。これは文楽の床本とも共通している?

この日は中学校、高等学校の教師が多かったよう。能を学校教育に採り入れるという目的で開かれているので当然だろう。常日頃から感じていたことを、改めて再認識した。それは学校教育の中で日本文学の伝統的な分野がほとんど教育されていないこと。音楽ではそれが特に顕著。明治以来の西洋偏重の文化政策のあり方が問われている。

『源氏物語』をとってみても、高校の「古文」の授業で習うくらい。アメリカの大学院時代に最も驚いたのが、「日本文学」のクラスを履修しているアメリカ人学部生が英語訳の『源氏物語』を読破していていたこと。54帖全てですよ。あの分厚いTyler訳のGenjiをバックパックから出してきたっけ。18、19歳の日本人学生のどれほどが現代語であれ『源氏物語』を読んでいるだろう?国文の学生くらいだろう。

日本の伝統音楽にも学校教育で出くわすことはない。だから、大学生になって外国人教員に「日本の音楽」について講義を受けて、驚いたりしている。

学校教育から日本の伝統的なものを排除するというのは、戦後より強まったのではないか。伝統教育=保守・反動なんていうような暗黙の了解が行き渡ってしまっているが故に。これが常態になっていると、不思議ともなんとも思わなくなる。それを打破するには、教育者からかえてゆかねばならない、教師を「教育」する必要があるだろう。このワークショップはそういう試みの一環だったと思う。