yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

斬新な芝居で魅せる『清水港は鬼より怖い』劇団花吹雪@京橋羅い舞座11月18日夜の部

今後は大衆演劇では「劇団花吹雪」の舞台のみ見ることにしよう!そう思わせる素晴らしい舞台だった。ここまでの知的なレベルの高い、ウィットとブラックユーモアの効いた舞台は、大衆演劇では初めてだった。知的に大いに刺激された。先月の新開地劇場公演で見た新派芝居にもうなったけど、このお芝居には「降参!」と叫んでいた。現在、歌舞伎、商業演劇、小劇場と張り合い、それらを凌駕する舞台で観客を魅了するのは、現在のところ「花吹雪」をおいて他にはない。断言できる。

小劇場の舞台を思わせる簡素なステージ設計。真っ黒の背景。そのど真ん中には「山長」の垂れ幕が。ステージ上には黒く塗った3mx2mほどの箱が置かれている。これを場面ごとに様々に使い分ける。この発想がまさに小劇場。小劇場と違うのは役者が上手いこと。棒読みの人は一人もいない。しかもそれぞれがニンにあった役を振り当てられている。

大衆演劇では常套になっているというか手垢のついた芝居、「清水の次郎長外伝」の一つ、「石松の最期」。これを逆転の発想で見事に覆して見せた。一種のパロディではあるのだけど、パロディにありがちなコメディ仕立てではない。人間のサガの恐ろしい奥底を垣間見せる内容。

あまりにも有名な次郎長一家の人物たち、次郎長(春之丞)、大政(愛之介)、小政(梁太郎)、石松(京之介)、お蝶(かおり)等が、伝説(?)のキャラはそのままに、そこに一捻り加えられている。その一捻りの最たるものが石松で、その軽率、能天気さゆえに、己のみか他の人物たちの運命を狂わせる結果になる。「ばかは死ななきゃ治らない」といった馬鹿さ加減だけではなく、実際には狡猾だったという設定。ただ「ばか」なので、それがたやすく次郎長たちに見抜かれると考えなかったところが、いわゆる「遠州森の石松」として人口に膾炙している「お人好し」キャラとは異なっている。

石松が金比羅参りの帰りに、あの閻魔堂での最期で壮絶な死を遂げるという大団円はそのまま。ただそこに到るまでの駒である「ほげたの久六」、「都鳥一家」の立ち位置がよくある石松もの芝居とは一線を画している。侠客の「美徳」が覆され、木っ端微塵に打ち砕かれる瞬間に観客は立ち会うことになる。

石松最期が壮絶であるのは、この舞台でもイヤというくらい強調されていた。九州系のみならず、多くの大衆演劇芝居でもこのところを、これでもかこれでもかというくらい、エグく、丹念に描く。花吹雪でも大政、小政、次郎長に散々に切り刻まれた石松役の京之介さんが、多量の血糊まみれになって息絶える場面は、まさにサディズムとグロテスクとの混合態。でもそれは悲惨でない。簡素な舞台によってグロテスクの美学が立ち上がってくるから。悲惨でなく悲壮。人間の性を描いて哀しく、愛おしいまでに悲壮。

石松の最期の後、幕が再び開くと、後ろの垂れ幕が「山長」から「鬼長」に替わっている。ステージ上には後ろ向きになった役者たち。その前には血糊まみれになって倒れた石松が。そして、下手から主要な役者たちが一人一人、カーテンコールに応えるかのように登場、挨拶をする。最後に登場したのがすっきりと血糊の影も見えない京之介さん。この演出、にくいですね。最後に舞台上に全員揃って幕。

私は最終幕の前にすでに芝居が終わったと思って退出しかけていたのだけど、「カーテンコール」が始まったので、後ろ席で立ち止まっていた。すぐ横で伍代つかささんが盛んにシャッターを切っておられた。もし写真があるなら、ぜひブログ等にアップしてください。伝説的な芝居になることは間違いなしだろうから。

芝居は第二部だったのだけど、第一部の舞踊ショーもまったく手抜きなく、花吹雪らしいキラキラした舞台だった。

春之丞さん、あなたはスゴイ!京之介さん、あなたもスゴイ!参りました。