yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手 エキシビション@スケートカナダ2016 (グランプリシリーズカナダ大会)

競技としてでなく、「舞」の一場面として羽生結弦選手のパフォーマンスをみれるしあわせ。EXが付いてくることをこれほどありがたいと思うスケート選手は、他にはいない。緊張感はあるけど、競技中のそれとは違った緊張感。リラックスして観賞できる。至福のとき。

曲はイル・ヴォーロ(Il Volo)の「Notte Stellata(星降る夜)」。浅田真央選手を教えていたロシアのタラソワコーチが先シーズンの世界選手権の時「あなたに滑って欲しい曲がある」とこの曲のCDを渡したのだという。ユニットのメンバー、三人全員が羽生選手と同世代。カンツォーネを思わせる甘い歌声。歌詞はラブソング。和訳のサイトをリンクさせていただく。ありがとうございます。

羽生選手が滑り始める。あぁ!バレエの「瀕死の白鳥」!「Notte Stellata」の原曲がこれ(サン=サーンス作曲「白鳥」)だから現出するイメージがそれであるのは当然といえば当然。バレエの「瀕死の白鳥」は、はかなくも麗しく生を閉じる白鳥のサマを踊るもの。それもソロで。バックには何もない。共に踊るダンサーもいない。独りで踊りきる。ただただ、自身の身体、その一点にピンポイントで意識を集中させつつ、燃え尽きようとする瞬間に向けて煌めく光、その光を纏っていることの悦びを表現しなくてはならない。悶え苦しんでゆく様ではなく、その中でもキラキラと燦然と煌めく孤高のありようを表現しなくてはならない。そこに自ずと生の意味が溢れ出るだろう。

まさにバレエの「瀕死の白鳥」を思わせる羽生選手の衣装。白さが眩しい。その白を強調するビーズ刺繍。滑るのに合わせてキラキラするのが、白鳥の生の煌きを表しているかのよう。滑らかで、優雅なスケーティング。デヴィッド・ウィルソン振付という。美の極み。「羽生結弦」でなくては、この芸術度の高さは極められない。「白鳥」ではあるけれど、やっぱり「瀕死の白鳥」なんですよね。バレエを採りこんだと思われるスケーティング、スピン、ジャンプ。それらがバレエとは違った、もっとダイナミックな白鳥像を現出させている。でもその優美さにおいて、何よりも優しさにおいて、バレエなんですよね。振付師の意図したこと以上が、演技として示されているに違いない。

たち現れるのは、瀕死の白鳥。この一年の羽生結弦選手。怪我で苦しみ、再起できないかもしれないという一抹の不安もあったことだろう。しかし、不安に怯え、縮こまるのではなく、それを積極的に演技として示し出すことで、心の平安は得られる。その演技が見ているものの心を打つ。内省的というのがぴったりの「溜めた」スケーティング。特にリンクの膝をついたり、しゃがみこんだ時のポーズが、ことごとく彼のこの一年の間溜めてきた思いを余すことなく表していて、こちらも涙ぐんでしまう。その身体が示す思いの深さが、しみじみと伝わってくるから。「どうだ、俺はここにいるんだ!」と言わんばかりの、あからさまな存在アピールでないところが、いかにも「羽生結弦」。

私は残念ながらバレエ「瀕死の白鳥」を実際には観ていない。Youtubeにアップされているものを何本か観た。名だたる歴代随一の花と呼ばれたダンサーが踊っている。どれも素晴らしいのだけど、羽生選手と似ていると思ったのがスヴェトラーナ・ザハロワの「瀕死の白鳥」。2015年ミラノスカラ座のものをリンクしておく。

ロシア人のタラソワコーチがこの曲を選んだ理由も想像がつく。「瀕死の白鳥」を踊るダンサーは、ロシア人がほとんど。旧ソビエト圏をおいて他地域でこんなにも優れたダンサーを多く輩出しているところはない。羽生選手にサン=サーンスの原曲をもとにした「Notte Stellata」を渡したというのは、彼への最大の賛辞であり、信頼。バレエでは悲劇になっているところ、イタリア人ユニットのこの曲はもっとラテン的で明るい。ユニットのメンバーも羽生選手と同世代。羽生選手ならこの「齟齬」を活かした演技をしてくれると確信したからだろう。タラソワコーチの慧眼に拍手を!

「瀕死の白鳥」を踊るロシアのダンサーの芸術完成度が飛び抜けて高いのは、そこに何がしかの東洋的なマゾヒズムが存在するからかもしれない。これは読み込みかもしれないけど、能の仕舞のあまり動きのない静かな所作の中には、身体を苛め稽古を積み上げてきたある種のマゾヒズムが透けて見えるような気がする。羽生選手が「SEIMEI」で、能の「マゾヒズム」を描出できたのは、おそらくは羽生選手の中にそれを許容できる、もっといえば享受できるような素地があったからだろう。「過酷な練習の中にのみ花開く」芸術の表現者としての自負は、彼の中にあったのではないか。それでなくてはあんなにも素直に能の具現化するものにアイデンティファイできなかったと思う。

今回のEXのスケーティングはまさにその延長線上にあるような気がする。マゾヒズムを極めてゆけば、瀕死の白鳥が表象する「崇高」にまで行ってしまう。そこを踏みとどまらせるのは、あのイル・ヴォーロの甘い歌声であり、その調べに乗った歌詞だろう。この絶妙のバランスの上に、羽生結弦選手のパフォーマンスは屹立している。