yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

中村勘九郎主演 舞台版『真田十勇士』@兵庫県立芸術文化センター大ホール10月14日夜の部

映画版はすでに9月末に見ている
今までに見てきた舞台の中で舞台装置がもっとも凝っていた。また豪華だった。ありとあらゆるメディア、とくにCG処理した映像を駆使して、一大スペクタルを展開させ、それを成功させたところは賞賛に値する。「岩」を累々といくつも重ね合わせ、かつ組み合わせて舞台の中核となる背景装置を形成していた。それが山になったり、城になったりと変幻自在に使われていた。この凝り方、充実度はMETのオペラを思わせた。随分とお金がかかっていただろう。高い入場料だったけど、それでも赤字だったのでは?

以下、舞台版サイトからの解説とあらすじ。

「嘘も突き通せば真実となる」──。嘘から始まった「真田十勇士」の物語は、いつしか真実へと変貌を遂げ、激しい戦の中で、彼らは「真の英雄」へと成長してゆく。

関が原の戦いから10年以上の歳月が流れ、徳川家康は天下統一を目前にしていた。最後に残ったのは、豊臣秀吉の遺児・秀頼【村井良大】と付き従う武将たちであった。秀頼の母・淀殿【浅野ゆう子】は、「豊臣の世をふたたび」という妄想に駆られ、徳川との対立を深めていた。大坂を戦場とした戦が始まるのは、もはや時間の問題となっていた。

紀州(現在の和歌山県)九度山、抜け忍びの猿飛佐助【中村勘九郎】は、真田幸村【加藤雅也】と出会う。幸村は天下に知られる名将だが、関が原で西軍に与したため、九度山で隠遁生活を送っていた。ところが、実際の幸村は、芯には光るものがあるものの、無口で平凡な武将にしか見えない。幸村大活躍のエピソードは、「噂話に尾ひれが付いたものか、偶然が重なったに過ぎない」と言う。己の虚像と実像のギャップに悩み、名誉を保ったまま、命を落すことまで考える幸村。その話を聞いた佐助は俄然、目を輝かせた。

「オイラの嘘で、あんたを本物の立派な武将に仕立て上げてみせようじゃないか!」

押しかけ家臣となった佐助は、幸村を本物の「天下の名将」にすべく、いわば<真田幸村をプロデュースする>ために策を考える。まずは、頼りになる仲間を探し、かつての忍び仲間・霧隠才蔵【加藤和樹】と再会する。容姿端麗で頭の切れる才蔵だが、山賊に身をやつしていたところを佐助に誘われ、「本物の英雄づくり」という世の中を相手にした大博打を仕掛けようとする考えに共鳴し、幸村の家臣になることを承知する。才蔵の屈強な2人の手下、三好清海【駿河太郎】と三好伊三【荒井敦史】も行動をともにする。

やがて、関が原などで戦経験豊富な強者・由利鎌之助【丸山敦史】、仕官先を探して諸国を旅する武芸者・筧十蔵【高橋光臣】など、新たな仲間が加わっていく。そんな中、佐助と才蔵は新たな企てを思いつく。幸村の存在をより神秘的なものにして世間に売り込むため、一騎当千の勇者たちを揃えて、世の中を震え上がらせようと…。仲間は十人、思った通り、「真田十勇士」の存在は一気に噂として広まった。

「世間というものは常にわかりやすい英雄を欲しているから、そこを利用するんだ!」

一方、徳川方の忍び集団の首領・久々津壮介【山口馬木也】は、娘の火垂【篠田麻里子】とともに、忍びの里を抜けた佐助と才蔵を付け狙っていた。壮介は影の存在である忍びの宿命を背負いながら、真田の勇者たちを追い込んでゆく。火垂も同じ使命を帯びているのだが、昔恋心を寄せていた才蔵に対しては複雑な感情を抱いており、闘いの場面では常に心の葛藤が見隠れしていた。久々津集団には、豪腕無敵の戦士・仙九郎【石垣佑磨】という存在も控えており、佐助たちの行く手をさえぎり、時として格闘、乱戦となり、毎回激しい戦いを繰り広げていた。
幸村は本当に大坂に味方するのか? 諸説が飛び交う中、最後まで決断を渋っていた。そんな中、昔の佐助とよく似たお調子者の根津甚八【村井良大】をはじめ、幸村の忠実な家臣・海野六郎【栗山 航】、そして、幸村の長男で幸村を信じて疑わない実直な息子の大助【望月 歩】、大助に付き従う家来・望月六郎【青木 健】らが加わり、ようやく10人が揃い、名実ともに「真田十勇士」が誕生したのだった。

豊臣と徳川が一触即発となる中、九度山に意外な人物、淀殿が訪ねてきた。幸村は若かりし頃、淀殿を慕っており、今なお純粋な思いを抱いていた。佐助たちが考えた「虚像を真実として貫き通す」という企てに本腰を入れて乗ろうと決めた瞬間だった。十勇士たちも賛成し、幸村の意を汲んで大阪方に味方することが決まった。「真田十勇士」たちは、いよいよ大坂城に入場し、慶長19年(1614年)、遂に「大阪冬の陣」の幕が切って落されようとしていた…。

佐助の本当の狙いは何なのか? 才蔵は仲間を信じているのか? 火垂の恋は叶わぬまま終わるのか? 幸村は本物の名将になれるのか? 淀殿の思惑の裏にあるものは…? それぞれがそれぞれの思いを抱えたまま、最終決戦の場に突入し、豊臣と徳川に翻弄された十勇士の運命は思わぬ方向へと突き進んでいく。たとえ、佐助や才蔵たちが望もうと望まなかろうと…。

以下キャスト。[ ]内は映画版配役。

猿飛佐助  中村勘九郎
霧隠才蔵  加藤和樹 [松坂桃李]
火垂(ほたる)(くノ一)  篠田麻里子 [大島優子]
真田幸村  加藤雅也
淀殿  浅野ゆう子 [大竹しのぶ]
根津甚八・豊臣秀頼  村井良大 [永山絢斗]
由利鎌之助   丸山敦史 [加藤和樹]
筧十蔵   高橋光臣
仙九郎(徳川忍者) 石垣佑磨
三好清海   駿河太郎
海野六郎  村井良大
三好伊三  荒井敦史
望月六郎  青木健
徳川家康   松平健 特別出演
真田大助   望月歩
久々津壮介  山口馬木也 [伊武雅刀]
後藤又兵衛  佐藤二朗
柳生宗矩  野添義弘

監督 堤幸彦
脚本 マキノノゾミ

ただ、この豪華絢爛の装置、配役にもかかわらず、というかそれがゆえに、「薄っぺらい感」が拭えなかった。これで一体何を見せたかったんだろう?この豪華さと抱き合わせの空疎さが、謳い文句にあるように、「何が真実で何が嘘なのか」を、つまりドラマそのものが嘘だったことを表していた?そう取れば納得できなくもない。でもそうじゃないんでしょうね。豪華さはやっぱり、ストーリーの「実」を表象するはずだったんでしょう。ただ、その効果のほどは製作の思惑とはズレていたのでは。

また、映画版でもそうだったんだけど、「嘘から出た真実。激しい戦の中で、彼らは『真の英雄』へと成長してゆく」というテーマの何という白々しさ。茶番は茶番であくまでも通して欲しかった。その茶番の極みのところにこそ、謳い文句のような「逆転」が起きるのでは?

さらに辛口批評を一言。ここまでやると、映画と何ら変わりがなくなる、舞台にする「意味」がなくなる。映画の何倍もの料金を払って、わざわざ劇場に足を運ぶ意味がなくなる。せっかく映画と劇場版を同時進行させるのであれば、舞台は映画版では叶わなかったアプローチを採るべきだったように思う。確かに劇場内を役者たちが走り回って、臨場感を高めたり、観客と触れ合ったりはしていた。でもそれは舞台からの越境として「ある」のではなく、あくまでも舞台世界の一部に過ぎなかった。先日見たシタター・コクーンの『四谷怪談』で、役者が観客席へ越境、「侵入」してきたのとは違う。あのとき掻き立てられた、「落ち着かなさ」とは無縁だった。不安感がない分、面白味にも欠けていた。

配役は映画版とほぼ同じ。才蔵は映画版の松坂桃李のノンシャランぶりがとても良かったのだけど、舞台版の加藤和樹もニヒルさを出して良かった。淀殿の浅野ゆう子がすごく良かった。大竹しのぶの、ワンパターン/イモ役者ぶりにうんざりだったので特に。お綺麗であることはもちろん、あの「ジュリアナ東京!」を偲ばせるフリ、最高だった。あれをみれただけでも来た甲斐があったと思ったほど。このフリ!勘九郎を始めとする若手男役者は完全に喰われていた!まさにバブル期の壮大な「嘘」世界が立ち上がってきていた。それこそがこの芝居のテーマだったんですよね。

勘九郎を始め、若手男性陣は彼女にちょっと位負け。無理してはしゃいでいるように見えた。あまりにも軽い。その軽さに合させられたちょっと年かさの加藤雅也も何か冴えない。役柄がそうだから?その辺りは舞台を見ても判然としなかった。歌舞伎役者がどこにいても、いかなる軽い役であっても、存在感が輝き出るのとは対照的。勘九郎もあの素晴らしい『阿弖流為』のときのように、最大限その力を発揮していなかったような。周りの役者に合わせていたからではないだろうか。

脚本のマキノノゾミ、演出の堤幸彦、共にやっぱり少々古い。無理してぶっ飛び感を出そうとしているのが、ちょっと痛々しい感じ。うんと浅野ゆう子さんを見習ってほしい。以下、舞台版フライヤーより画像をお借りする。