yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

弘前の文学者たち

弘前での二日目、洋館めぐりのついでに弘前市立郷土文学館に行ってきた。洋館の図書館に隣接する瀟洒な近代建築の建物。ちょうど「福士幸次郎展」が開かれていた。そのチラシが以下。

さらに、以下が文学館サイトの情報。

第40回企画展「福士幸次郎展」
福士幸次郎 明治22年(1889年)〜昭和21年(1946年)

福士幸次郎は、大正時代に活躍した口語自由詩の先駆的詩人です。幸次郎は弘前市本町に生まれました。青森県立第三中学校(現青森高校)を経て上京。神田の国民英学校、暁星仏蘭西専修学校に学びました。後に秋田雨雀の紹介で佐藤紅緑の書生となり、語学力を買われました。幸次郎と紅緑との交流は、幸次郎が亡くなるまで続きました。

大正3年、第一詩集『太陽の子』を出版します。この詩集は口語自由詩のさきがけと言われています。この後に高村光太郎『道程』や萩原朔太郎『月に吠える』等の口語自由詩の詩集が刊行されています。第二詩集『展望』を出版した後、詩作から遠ざかりましたが、評論活動や、民俗学の研究を行い、幸次郎が残した研究は今も注目されています。

また、「地方主義の行動宣言」を発表して地方主義運動をすすめ、多くの人々に影響を与えました。この中から、詩人の一戸謙三や高木恭造が誕生しました。

今回の展示では、没後70年を迎えた福士幸次郎の生涯を当文学館で収集した資料で紹介します。

福士幸次郎についてはほとんど知らなかったけど、詩「太陽の子」が館内に展示されていて、そういえばこれは読んだことがあると思い出した。日本での自由詩の先駆者だという。かなり詳しい伝記が展示されていた。それによると芝居用衣装屋を営みつつ、座付きの本書き兼役者をしていた父の許に生まれている。父親が小屋を建てて、青森に移ったので、家族もそれについて行った。ここにとても興味を惹かれた。佐藤紅緑の書生をしていたのは上にある通り。外国語を学んだことからわかる通り、翻訳もしている。

Wikiの「佐藤紅緑」の項では「弟子に佐藤惣之助と、独自の日本文化論を提唱した福士幸次郎の二人の詩人がいる。福士は紅緑の食客で、紅緑の家庭内の事件のたびにその収拾に奔走した」とある。その縁で紅緑の息子のサトウ ハチローの家庭教師のようなこともしていたらしい。こういう経歴そのものが、ドラマチックで面白かった。自由奔放な詩で知られるサトウ ハチローは常々、「私が今あるのは福士先生のおかげ」と言っていたらしい。

青森出身の太宰治、葛西善蔵の展示もあった。劇作家で詩人の寺山修司のものも。近いところでは石坂洋次郎の展示が最も力が入れられていた。それも当然で、彼は弘前の出身だという。葛西善蔵も佐藤紅緑も然り。弘前の街のあの特有の雰囲気。文化レベルの高さと洗練。それが「日本の伝統と西洋の新しい様式とのアマルガムから生み出されるものではないか」と推察していたので、文学者が多く輩出されていることに驚かなかった。