yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

吉田文雀さんが亡くなられた

8月20日のことだという。

3月に引退されていたんですね。最近は姿をお見かけしないと思っていた。以前ほど文楽に頻繁に行かなくなったのもあるけど、最近は若手の人形遣い、大夫さんたちが活躍されるようになっていたので、年配の演者が舞台に上がっておられなくても不思議に思っていなかった。住大夫さん、嶋大夫さんの引退があってから、世代交代が目に見えて進行していたけど、文雀さんの訃報がそれに輪をかけるだろう。

文雀さんのことをある批評家が「知性派」と評価したことがあった。それがどなただったのか、記憶の彼方なので、はなはだ心もとないのだけど。でもその言葉が印象に残っているのは、他の女形人形遣い、例えば簑助さんとは違った遣い方が、その「知性派」に合致したからだと思う。簑助さんの女形が華やかで、嫋嫋としていて、時としては妖艶ですらあるのに対し、文雀さんは意識的にそれとは対照的な遣い方をされているように思えた。「さらっと」、あるいは「すんなりと」っという表現が合っているかも。過剰を省くというか、あざとさを排するというか。でも情緒が減じるわけではなく、すっきりとした中にふくよかな香りがあった。残り香のようなもの。退場した後、「あの子誰なの?」って気にかかるそんな女性が、文雀さんの遣う女性だったような気がする。あの文楽の人形遣いで伝説になっている吉田文五郎さんのお弟子さん。文五郎さんは吉田栄三さんとともに文楽のアイコンになっている人。それは以前に文楽の芸談、あるいは批評を読んだ折に仕入れた知識。ネット検索をかけたら、昭和37年の毎日新聞の記事(「”文五郎”の死と文楽」を挙げておられる「yamasakachou」という方のブログ記事を見つけた。リンクさせていただく。

また、「妄想オムライス」さんのブログに安藤鶴夫作品集III 「芸と人 栄三と文五郎」からの抜書きがある。二人の人形遣いを比較、対照してあるもの。いずれの芸も見たことがない私には、とても興味深い。こちらもリンクさせていただく。そしていかにその一部を引用させていただく。

芸も人も凡そ対照的な二人である。栄三の芸が理知的であるといえば、文五郎は情の芸である。栄三が陰翳の深い精神美を持った芸だといえば、文五郎は淀みのない官能美である。一方が手堅く、渋く、研究的で、芸を苦しんでいるのに対して、一方は奔放で、明るく、愉しそうに舞台で遊んでいる。地味で品位のある遣い方に対して、華麗で色気のある事も挙げられよう。手堅く真面目という事には、ぞろッぺえで気楽人であるという事も教えられる。栄三と文五郎とは、こうした対象を挙げ出したら凡そ限りのないほど、純白と真紅ほどにも、なにからなにまでが、対照的な存在である。

安藤鶴夫の『文楽 芸と人』(朝日選書、1980年刊)は以前に古書で手に入れて読んだ。これは先日の断捨離にも生き延びて本棚にあった!読み直してみて、同じ文章はないので、上記箇所は全集にのみ採録されてたのだろう。

ここにある文五郎の芸とそのお弟子さんだった文雀さんのそれとはちょっと印象が違っている。知性派というか学者肌だった文雀さんは師匠の芸をそっくりそのまま継承されたのではなく、それを分解、解体されて、その上でご自分の持つ役のイメージに合うよう再構成されたのだろう。あの飄々、淡々とされた感じからは、そういう「操作」がまったく感じられなかったけど。