yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『瞼の母』戟党市川富美雄一座@笑楽座8月15日昼の部

忠太郎は「なにわ三国志」の演出もされている土井泰士さん?おはまをこれまた「なにわ三国志」関係の役者、谷川恵那さんという配役。谷川さんは今月は戟党に参加されている。

長谷川伸原作の『瞼の母』、大衆演劇では(見た順に)南條影虎版、伍代孝雄版、澤村心版、そして松井悠(劇団悠)版を観ている。それぞれ当ブログ記事にしているが、ここには劇団悠版をリンクしておく歌舞伎では勘九郎 with 玉三郎で観ているのでこれもリンクしておく。また、原作脚本自体についても記事にしているので、リンクしておく

きちんと原作に沿って演じられたのは良かった。現代の役者がこのセリフをこなすのはかなり大変だろう。原作にほぼ忠実だったのは評価できる。でもそれがゆえに逆の問題も出てきていた。忠実に言葉を掬い上げればすくい上げるだけ、浮き足立てしまうという問題が。原作の言葉がこなれていなかった。

突貫で稽古されて、そのまますぐの舞台だったわけで、こなれるのは無理といえば無理だろう。想像するに、この芝居そのものを歌舞伎、大衆演劇、あるいは新国劇前進座、あるいは大衆演劇等のいわゆる「伝統演劇」の舞台で見ておられなかったのでは。それならいっそのこと、原作を現代劇に大幅に改作して演じてみても良かったのでは。身体が現代人のまま、喋り方も現代人(当然ですが)、立ち居振る舞いも現代的となると、この芝居の根幹が揺らいでしまう。ここが難しい。パロディにしてみるのもアリだったかも。現に都若丸さんは『瞼に母』なんていう「改作」をしておられる。

つくづく感じたのは、長谷川伸の芝居は「歌舞伎」が通奏低音になっているということだった。あの原作をそのまま現代劇の舞台に乗せるのには無理があるということ。歌舞伎化しなくてはならない。「歌舞伎」の枠をはめる必要がある。つまり型を決め、様式を際立たせるということ。そうでなくては単にベタベタしたお涙頂戴劇に堕ちてしまう。長谷川伸が狙ったのはセンチメンタリズムではない。問題なのは、歌舞伎といっても、長谷川伸作品がモダンな「意匠」をまとっていること。心理に踏み込む要素が入っていること。そこだけをとって現代劇と錯覚して演じると失敗する。ベタベタと演じても、あっけらかんと演じてもつまらない。ここのバランスをとらないと、今の観客には訴えられないだろう。

この日の舞台は何か「あっけらかん」の風が吹き抜けるものだった。忠太郎役の土井さん、渡世稼業の骨太の感じも出ていたし、母親のおはまに拒絶され、女々しく嘆くところには真実味があった。でもその演技はあくまでも現代劇の文法に則ったもの。忠太郎の演技にはいわゆる「肚」が要る。それこそ歌舞伎のもの。現代風に演じてしまうと、この肚の部分が全く活きてこない。

例えば以下のクライマックスの忠太郎のセリフ。

違う違う違います。銭金づくで名乗って来たのじゃござんせん。シガねえ姿はしていても、忠太郎は不自由はしてねえのでござんす。(胴巻を出し百両を前に)顔も知らねえ母親に、縁があって邂逅って、ゆたかに暮していればいいが、もしひょッと貧乏に苦しんででも居るのだったら、手土産代りと心がけて、何があっても手を付けず、この百両は永えこと、抱いてぬくめて来たのでござんす。見れば立派な大世帯、使っている人の数も夥しい料理茶屋の女主人におッかさんはなってるのかと、さっきからあッしは安心していたが、金が溜っているだけに、何かにつけて用心深く、現在の子を捉まえても疑ってみる気になりてえのか、おッかさんそりゃあ怨みだ、あッしは怨みますよ。

ここの「おッかさんそりゃあ怨みだ、あッしは怨みますよ」が生きていなかった。これは今まで見た中では影虎さんが最も良かったと思う。

ここを上手くやらないと、後のセリフも生きない。おはまになぜ「堅気になって訪ねてこなかったのだ」となじられていう忠太郎のセリフ(これ、この日は省略していた?)。

おかみさん(ここで既に「おっかさん」ではなくなっている)。そのお指図は辞退すらあ。親に放れた小僧ッ子がグレたを叱るは少し無理。堅気になるのは遅まきでまききでござんす。

これがあるので、おはまは忠太郎が紛れもなく自分の子であると認めるわけである。前の記事にも書いたのだけど、ビジネスウーマンとして女手で料亭を切り盛りするいわば「男」になっている(ならざるを得ない)おはまの心に突き刺さる忠太郎のことば。忠太郎に「男」として対峙し、彼にもそれを要求した自身のことばがそのままブーメランになって還ってきた。劇団悠の悠座長のこの場面での啖呵、しみじみと良かった。男の矜持の衣をまとった忠太郎、でも覆い隠そうとしても出てしまう子供っぽさ。この描き方が秀逸だった。

その認めるプロセスもまた難しい。ある意味、おはま役は忠太郎と同じくらいに難しい役だろう。ここの心理の移り変わりを演じてうまかったのは玉三郎。そして劇団悠版の藤千之丞さんのおはま。私的には千之丞さんのが一番。不思議なことに玉三郎よりも千之丞版の方が歌舞伎的だった。谷川恵那さんのおはまはどこまでも現代劇の範疇を出ていなかった。だから単にヒステリーおばさん(すみません)に見えてしまった。こちらも肚がなかったように思う。

そして最後の場面での忠太郎の述懐。これこそ歌舞伎と現代劇との見事なアマルガムだと(私は)思う。

俺あ厭だ――厭だ――厭だ――だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤が出てくるんだ――それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)

忠太郎の甘えと矜持との間で揺れ動く心理をこれほど繊細に描いたセリフはないだろう。ダメ男なんですよ、忠太郎は。でも、だからこそ愛おしい男に映るんですよね。この日の舞台ではそういう感慨は沸かなかった。残念。

この日はゲストに来られた土井さんとなにわ三国志の役者さんを立てての舞台だったのだろう。私としては、この日夜鷹のおとらを演じた富美雄座長におはまを、忠太郎をこの日孫助を演じた飛雄馬さんに演じてもらいたかった。もっとしっかりと「歌舞伎」調が出せただろうから。

戟党市川富美雄一座はこの日で二回目。歌舞伎の基礎がある劇団。何よりも品がいい。その点、「下町かぶき組」との共通点を強く感じた。非常に優れた劇団。この前日に明石で見た劇団とは雲泥の差。芝居の質が比べ物にならない。舞踊がちょっと古い感じは否めないけど、それでも格があるということかもしれない。

この日、劇場に行って驚いた。開演10分前、長い列が。補助席だった。大入りが二枚出たので良かった。特別料金だったのと、ゲストのお知り合いが多数来場されたのと、お盆休みだったのが良かった?