yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

岡本綺堂著『半七捕物帳』と記号論

映像化された「半七」だけでなく、原作にも当たっておこうと考えて、図書館から第5、6巻(光文社)を、そして2日前に第4巻を借り出し、読んでいる。第1、2、3巻は貸し出し中で、待たなくてはならない。今までに読んだところでは、テレビ脚本には原作に忠実なものとそうでないものとがあることがわかった。

「鬼平」との相違点にも気づいた。「鬼平」の方がドラマチックというか文学的。「半七」はもっと科学的、理知的。推理に重点が置かれている。幾つかの事実を机上に並べ、そこから推理し、一つの仮説を組み立てるという手法はあのシャーロック・ホームズのもの。作者の岡本綺堂はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」を参考にしたのだとか。いかにもと思った。ホームズの推理法は数学の「証明」に近いけど、半七の推理もまさにそう。子分の下っぴきたち、そして自身が集めた情報、また一般の見物が見落としている些細な徴候、それは事物だったり人の表情であったり、人と人との関係の表層にちらっと覗く綾、影のようなものだったり、あるいは普段はしないような行動だったりするのだけど、それらをすくい上げ、きちんとした理の通った「説」になるように組み立てる。現代のように「科学」の助けを借りることのできない当時、指紋を採ったり、血液を採取したりはできない。痕跡を炙りだすといっても、方法は限られている。ましてコンピュータを使っての捜査なんてありえない(そういえば、最新のシャーロック・ホームズシリーズでは、ITを駆使してまるで近未来的な操作方法が採られているのだけど)。こういう科学の最先端から見ると、半七の推理のやり方はあまりにも前近代的で、かつ曖昧模糊としたものに映るかもしれない。でもそれが当時とすれば最先端のアプローチ法だったはず。

この方法こそまさに記号論的。シービオク夫妻の書いた『シャーロック・ホームズの記号論』を連想した。私だけではなく、松岡正剛氏もこれに言及しておられる

文学批評の手法としては面白い。でも記号論を小説にアプライすると、いささか無味乾燥な感がしてしまう。「情」の部分が大方端折られてしまうから。綺堂がそういう情の薄い作品のみを生み出しているわけではない。おそらくこの「半七」シリーズはコナン・ドイルの向こうを張る実験だったのだろう。綺堂の『修善寺物語』が非文学的なわけではないから。

事件の解決法がそのまま記号論的である原作のエピソード。ところがテレビドラマの方はそれとは違っている。もっと文学的、ドラマチック。脚本家たちが腕を競ったのは、まさにこの記号論的に説明がついてしまうような話を、いかにドラマとして面白おかしいものにするのか、どうエンターテインメントとして十全なものにするのかだったのではないだろうか。