yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

菊五郎主演『半七捕物帳』テレビドラマシリーズ(1979 年)

菊五郎主演の『半七捕物帳』は全26話。どれを取ってもほっこりとするドラマで、すべて見終わったのだけど、時間があれば見直している。吉右衛門主演の『鬼平』シリーズも時々見返してはいたけれど、これほどではなかった。この二つのテレビシリーズの違いは、原作をドラマ台本にするときの再構成の仕方。『鬼平』の方は池波正太郎の原作に沿うようにドラマ化されている。それに対して『半七』の方は岡本綺堂の原作の構成が大幅に組み替えられていることが多い。これも興味深い。池波も綺堂も芝居台本を書く人、つまり脚本家としても活躍した人たち。しかもいずれもが優れた脚本家でもあった。

『半七』に限っていえば、この脚本家としても大家だった綺堂の原作をどうドラマにするかというのが、それぞれの脚本家の腕の見せどころだっただろう。何人かが交代で脚本を書いているので、互いに競いあうという面もあったに違いない。それにしてもなんという贅沢。脚本家の顔ぶれをネットで検索すると、皆さん東映のヤクザ映画で名を売った人たちだったことがわかる。監督も然り。全員がヤクザ映画の全盛期を支えてきた人たちだった。テレビに押され、斜陽になる一方だった邦画。ヤクザ映画はその中で光る最後に燦めく光だったのかもしれない。「たかが映画、されど映画」のdecencyとprideとを併せ持っている。譲れない美学。それが大輪の花を咲かせたのが高倉健、鶴田浩二などが主演するヤクザ映画だった。その美学は、『半七』シリーズのどの話にも表れている。また『鬼平』シリーズにも表れている。

前にも書いたけれど、この美学が歌舞伎役者の菊五郎や吉右衛門によって具現化されている。『半七』の場合、坂東八十助(のちの三津五郎)、松本幸四郎(八代目、のちの白鸚)などが参加、より歌舞伎度が上がっている。江戸を舞台とする人間模様がくっきりと浮かび上がっている。それがバラバラではなく、半七を演じる菊五郎の身体が具現化している「型」とでもいうべきもの。そこから醸し出される粋。もちろんそれは歌舞伎から来ているのだろうけど、それが冷たいおきまりのものではなく、江戸人情話特有の温かさが立ち上がってくる。気っ風の良さも。

余談ながら、現在活躍している歌舞伎役者が時代劇にぜひとも出て欲しいと願うのは私だけ?優れた脚本、優れた監督、それに優れた役者が加われば、まさに鬼に金棒。ただ、優れた脚本、監督となると難かしいのかも。それも何人かでオムニバス形式でやるとなると、もっと難しい?