yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』@塚口サンサン劇場7月10日

原題は『The Eichmann Show』。

劇中、「イスラエルニュールンベルグ裁判」というタームが出てきたけど、まさにそれを記録するドキュメンタリータッチの作品。公式サイトをリンクしておく。この公式サイトで「ストーリー」が読める。ここには「イントロダクション」部のみ借用させてもらう。これだけでも十分長いけど。

強制収容所解放70周年を記念して制作された作品『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』は、世界が震撼したナチスの戦犯アイヒマンを裁く“世紀の裁判”の制作・放映の裏側を描くヒューマンドラマである。世界がホロコーストを理解するための出発点となった、世界初となる貴重なTVイベントの実現のために奔走した制作チームの情熱と葛藤、信念の物語。これまで一度も語られることのなかった衝撃の実話が今、スクリーンに再現される。

1961年、イスラエルエルサレムでは、歴史的な裁判が開かれようとしていた。被告は、アドルフ・アイヒマン第二次世界大戦下のナチスの親衛隊の将校であり、“ユダヤ人問題の最終的解決”、つまりナチスによるユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)を推進した責任者である。15年による逃亡生活の果て、アルゼンチンで身柄を拘束されたアイヒマンは、イスラエルに移送されエルサレムの法廷で裁かれることになった。

このテレビ放映権を獲得したのが、アメリカの若き敏腕プロデューサー、ミルトン・フルックマンである。「ナチスユダヤ人になにをしたのか、世界に見せよう。そのためにTVを使おう」

TVというメディアに関わる者として、フルックマンは強い使命感に駆られていた。彼が監督に指名したのは、才能があるにも関わらず、反共産主義に基づくマッカーシズムの煽りで職を失っていた米国人ドキュメンタリー監督レオ・フルヴィッツ。悪名高きナチス戦争犯罪人の素顔を暴くためには、一流のスタッフが必要だった。

政治の壁、技術的な問題、さらにはナチの残党による脅迫などさまざまな壁を乗り越え、撮影隊は裁判の初日を迎える。それから4ヶ月間、フルヴィッツらによって撮影された映像は、世界37カ国でTV放映された。アメリカの3大ネットワークでも放映され、イギリスのデイリーニュースは速報で伝えた。ドイツでは人口の80%がこの放映を観たといわれている。

アイヒマンが悔恨の情を垣間見せることなく淡々と罪状を否定する様子が映し出され、112人に及ぶ証人が生々しくホロコーストの体験を語った。この世のものとは思えない残酷な実録映像も証拠として流された。

世界を揺るがせたアイヒマン裁判のTV放映は、まさにその後世界が知ることになるホロコーストの真実が、映像として明るみに出た最初の瞬間だった。

アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』は、歴史的TVイベントを成功させたテレビマンたちの熱きドラマであると同時に、実話に基づいた歴史映画としても貴重である。

以下、スタッフ。

監督 
ポール・アンドリュー・ウィリアムズ

配役
ミルトンテン・フリックマン  マーティン・フリーマン
レオ・フルヴィッツ  アンソニー・ラパリア
ミセス・ランドー  レベッカ・フロント

裁判を録画した実際の記録映画を中心にして、映画は展開する。テーマはずばり「悪」だろう。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったのはアドルノ。近代文明へのアンチテーゼだった。

この映画の秀逸な所は、あのおぞましい虐殺が、いかなる意味も正当性も持たせられない「悪」行為が、一体血の通った人間に可能なのかという問いに対峙するのに、無機的なそれも近代文明の産物であるカメラを使ったところ。記録映画に次々と映し出されるのはアウシュヴィッツ収容所での、(語弊を恐れずに言えば)ドイツ的な精巧さでもって、極めて効率的に人を殺すシステム。まるでベルトコンベヤーに乗せられた「製品」のごとく次々と積まれてゆく屍体の山。一連の「殺戮マシーン」はある意味文明が生み出した機器。それが律儀に当時最高レベルだったドイツ製カメラによって記録される。その映像を、フルヴィッツたちカメラマンチームが再・撮影する。その合間に、フルヴィッツ対カメラマン、そしてフルヴィッツ対フリックマンの間の軋轢がドキュメンタリータッチで挿入されて行く。

ただ、そういう現在進行中の対立を無化してしまうほどの、過去の記録フィルムの圧倒的な重さ。それはそのままアドルノの問いにつながって行くだろう。この映画の監督、そして俳優たちがどう描こうと、記録映画の重さに太刀打ちできない。色褪せてしまう。

しかもここで秀逸に描かれているように、アイヒマンには悔悛のかけらも見えない。まるでロボットのように否定を繰り返すのみ。フルヴィッツがチームの他の人間に逆らってでも、写したかったのはアイヒマン人間性の片鱗だったはず。でもすべて空振り。それを「凡庸な悪」と言ったのは一時ハイデガーの愛人だったハンナ・アーレントだった。かってこのようなおぞましい犯罪を犯した人間なのになぜここまで「凡庸」なのか。悪魔の化身を期待した人も、そして人間のかけらを期待した人も双方ともに「裏切られる」。

映画自体は重いテーマを扱っているのだけど、ヒューマンドラマというより、記録映画に近いかも。裁判記録の方がはるかに重いから、それも仕方ない。どういうアプローチも不毛であるのは、はなから分かっているから。だから役者は素晴らしかったのだけど、ぐさっと心に突き刺さるところまでは行かなかった。一人あげるなら、ミセス・ランドーを演じたレベッカ・フロント。目の演技が凄かった。

アウシュビッツを、ホロコーストを「描く」ことは不能な闘いなのかもしれない。唯一そうでないものを挙げるとするなら、パウル・ツェランの詩だろう。これには完膚なきまでに打ちのめされる。圧倒的言葉の力。