yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦さんが藩主役で出演『殿、利息でござる!』

5月14日に公開されたばかり。早速見てきた。目的は羽生結弦さん。彼が演じたのは仙台藩七代藩主、伊達重村。羽生結弦さんが出演されるというので、twitterでは大盛り上がり。ファンの多くが昨日、今日ですでにご覧になったのでは。

いささか「年若い」感はあるものの、堂々とされていた。村人がうち揃った部屋に入ってくるその時の歩の進め方がいい。なんといっても藩主ですから。バタバタでは品がない。かといってゆっくりだと闊達さがない。そのバランスの取り方がさすがと思わせる。的確にその歩を捉えているカメラもニクい。また、「世が重村じゃ」と名を名乗る際、頭をてっぺんとするピラミッド形の体勢が、見事に決まっている。顔の表情も柔和すぎず、かといって厳しすぎず、未熟すぎず、老成しすぎず。その均衡の取り方に唸らされる。一芸に秀でた人は、門外漢のジャンルででも、存在感を遺憾なく発揮できることを確認した。彼の登場まで、村人たちの地を這うような苦労をこれでもか、これでもかと見せられた観客。このちょっと浮世離れしたお殿様に救われた気がしただろう。ほっとしただろう。そのお殿様、「かごも馬もいらん!歩いて帰る!!」と言い残し、一陣の風のように、爽やかに去って行く。羽生重村の浅からぬ存在感を残して。

公式サイトには写真がアップされている。

スケーターとして彼を見るのか、それとも役者として彼を見るのか悩ましいところだけど、そのどちらでもあるんですよね。それにしても光っています。さすがです。見る前は自分がどう感じるか、がっかりするかもとちょっと心配で(ごめんなさい)、見たいような見たくないような感じだった。でも心配無用!羽生結弦はどこまでも羽生結弦

観世寿夫さんの『心より心に伝ふる花』に、演技者の「心得」を書いた行がある。それがこれ以上ないくらい的確に「羽生結弦」というひとの(スケーティングのみならず映画での)演技を表しているように思う。

能の役者の能への思いや感性、ひいては演劇観、人生観、世界観が、形付の一行の読みに投影されて、はじめて能として舞台に生きるのだ。自分はこの能をこのように読んだから、、観客にはこういうふうに見せられる、と思ったり、いかにも解説しているかのような解釈の見える能ではまずいのである。観客にわからせるためではなく、自分が能を演じる時に、まず自分が納得するために、能という狭い範囲ではなく、世界の中の演劇なり舞踊なり音楽なりの視野から能を見つめてみる、——これはあくまでも自分で自分の能を創り上げるための視野を持つことなのである。(略)はじめに自分なりの解釈があって、それを自分の中で消化していくうちに、解釈を超えたものを立ち現わせるようにならなければいけない。そうした己の内なる作業を活潑にするために、さまざまなものが読まれるべきで、たとえばグロトフスキーとかアルトーとかいった現代の西欧の演劇人の著書だって、能を演じる時に役立つのである。

この中の「能」をスケーティングに置き換えると、それは羽生結弦さんのスケーティングへの姿勢そのもの。彼の存在が映画のなかで屹立しているのは、その演劇観、人生観、世界観が立ち現れてきているから。

彼の映画という違ったジャンルへの出演は、まさに「己の内なる作業を活潑にするため」だったような気がする。