yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手が描く世界、「SEIMEI」in 世界フィギュアスケート選手権2016@ボストン

フリーの演技を見終わった。ジャンプで転倒しようが、回転不足であろうが、やっぱり羽生結弦選手の演技は卓越していた。他選手との何よりもの違いは、彼にはのスケーティングで表したい世界があるという点。お仕着せではなく、彼自身に溢れ出す思いがあり、それがたまたまスケーティングの演技という形を借りたにすぎない。他選手の場合、初めにスケーティングのテクニックありきで、いかに高得点を稼ぐかということが前提として揺るがない。でも羽生結弦選手の場合はまず、表現したい何かがあり、それをジャンプ、スピン、といったスケーティングのテクニックを駆使して描出する。しかもその表現したい何かは、受けが良さそうだとか、高得点を稼げそうだからという理由で選んだものではなく、彼自身の内発的なもの、いわばやむにやまれず湧き出てきたもの。詩のようなもの。だからこそ、彼の演技は人をこれほどまでに感動させる。彼が描き出す世界に自身の思いを添わせることで、人はこの世界を超えたところを見ることができる。その媒介者こそが「SEIMEI」。天・地を結ぶものとしての陰陽師。「陰陽師」、羽生結弦選手が志向するのは、天・地を結ぶ演技であり、そこに生み出される「美」、「崇高」だっただろう。その点で、普通のスケート選手とは次元が違う。

今朝、11時すぎに彼の演技が終わった。Twitterに直後の彼の表情がアップされていた。目の下に隈ができ、かなり疲れた表情。彼にとって、満足の行く結果出なかったのは、明らかだった。悔しさに身を喰む思いだっただろう。たまらなかった。Twitterではファンの方たちが、私と同じ思いを抱え、なんとかそれをなだめようとtweetされていた。

私といえば、弓羽弦神社に行ってきた。絵馬を奉納した。そういえば、去年、同時期、羽生結弦選手が手術等のトラブルで、スケートをお休みしていた折にも絵馬を奉納した。あの時の不安や憂鬱に比べると、今回はずっと「楽」。羽生結弦選手はこれをバネに、もっと飛躍するにちがいないから。彼のこの一年の活動からそれを確信できる。以下が弓羽弦神社で撮った写真。

おなじみ、「はたちの献血」ポスター。

ちょっと離れて。

すぐ右手のしだれ桜。

神社本殿。

手前の絵馬。

向こうの絵馬。いずれも羽生結弦選手の写真を貼ったものがちらほら。ほとんどが彼のことを祈願してたものと思われる。

明日は京都の晴明神社に行くつもりにしている。今回、何よりも許せないと感じたのは、練習中に彼の練習を妨害する選手がいたこと。危険極まりない。彼のような美しい魂を持つものには想像もつかない邪なもの。きっと羽生結弦さん、ものすごく傷ついたはず。相手は平気だったでしょうけどね。胸が痛む。そういう邪念が彼に今後近づくことがないよう、祈顔してくるつもり。競技前に行くべきだったのかも。