yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手がHERO (主人公):ドラマとしてのフィギュア世界選手権2016

フィギュア世界選手権の放映、昨日は午後7時にはテレビの前に座り、観戦。結果はわかっていたけど、でもやっぱりドキドキ。スケートそのものに興味があるわけではないので(スケートフアンの方、ゴメンなさい)、羽生結弦選手だけを見たいがためだった。その一点に向けての気持ちを盛り上げるつもりではあっても、全体を通してみると、各選手の出身の国の事情とかも含めていろんな背景が見えてくる。また観客の様子からも、様々な事情が浮き彫りになる。改めてスケートの大会は、観客との共同作業としてのドラマであるとわかる。このように全世界に向けて放映されるものは、私のようにテレビ前で「観戦」する者も取り込んでのドラマ。野村萬斎さんとの対談で、羽生結弦さんが萬斎さんにアドバイスを求めたのも、まさに広いリンク会場での観客との対峙の仕方だった。ここにも羽生結弦さんが並みのスケーターではないことが窺える。芸術は常に鑑賞者を設定しているから。彼は自身を芸術家として強く意識していたのだ。

スケート選手はドラマを演じる役者。身体的な特徴が特に重要なのは、バレエと同じ。姿がいい、つまり「細っそりしていて、足が長い」というのは、絶対的に有利。羽生結弦さんほど優れた資質に恵まれた人は、他にいない。芝居だともちろん主役。

また、選んだ曲は、その選手の美的センスの度合いを表す。何よりも芸術性が透け見える。その点でも羽生結弦選手の選曲の卓抜なこと。ショパンのバラードは私の好きな曲の一つ。切なくも美しい曲。でも羽生さんがこの曲を選んだのはそれだけではないだろう。この短い曲の中には喪失の哀しみと同時に、それを癒し鎮める強い意志が感じられる。この曲の選択は、あの大震災での彼の体験から出てきたものだろう。彼の芸術性と彼の意志との結合態としての「バラード」。彼の感性の深さと頭脳レベルの高さとの結合態でもある。

去年のこの時期のことを思わず思い返してしまった。彼にとって、苦しい時期だった。その苦しみを経て、ここまで芸術性の高いパフォーマンスをを生み出した羽生結弦選手。その精神の、身体の美しさに感涙。そして、ここまでの「美の申し子」がこの日本に生まれ、その演技によって私たちを癒し、励ましてくれることにただ感謝。