yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

国枝史郎著『神州纐纈城』(『昭和国民文学全集』第10巻)の怪奇世界

誘惑に負けて読んでしまった。三島由紀夫が高く評価しただけのことはあった

なによりもその文体がすばらしい。吉川英治の『江戸三国志』はその文体に慣れるのに時間がかかったけど、こちらはすんなりと馴染めた。劇作家としてスタートとしたという彼の経歴をWikiで読んで、「やっぱり」と納得。早稲田の英文出身。「1910年にフォン・ショルツ、ダヌンツィオ、ワイルド、メーテルリンクなどの影響を受けた戯曲集『レモンの花の咲く丘へ』を自費出版し、高い評価を受けた」という箇所にも、「なるほど」と思った。松竹座の座付き脚本家になったのだけど、バセドウ氏病を患って退社、長野に帰郷したという。1943年に56歳で他界。

三島が『神州纐纈城』を読んだのは1968年の復刊によってらしい。三島は意図的に装飾華美な文体をつかうけれど、文章としては読み易い。劇作家なので、情景を切りとってそれを視覚化する術に長けているから。池波正太郎の文章が読み易いのも、彼が劇作家だから。すぐれた劇作家は、散文でも読み易い文章を書く。文体的には池波との近似性を強く感じた。しかしその内容は、泉鏡花の描く世界に近い。Wikiではここのところを以下のように解説。

三島由紀夫にも「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」1972年)と評される。またこれに続く小栗虫太郎、江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭など怪奇幻想ものブームのさきがけとなった。

若干14歳の小姓、高坂甚太郎が「鳥刺」に化けるというのが、『魔笛』のパパゲーノを模しているようで、オカシイ。パパゲーノと同様、彼もフール。信玄の「高坂庄三郎を捕えよ」との主命を負って、旅をかける。当の庄三郎は魔界に消えた母と叔父を探して、信玄のもとを出奔していた。

舞台転換の役を担っているのが纐纈城と富士の裾野を拠点とする「富士教団」。背景にあるのは武田信玄、上杉謙信の「闘い」。纐纈城の城主の醸し出す重い雰囲気。城主が顔を鉛色の仮面で覆っているのはそれがライを病んで崩れているから。彼は愛妾とその愛人を無惨なやり方で殺戮、復讐を遂げる。そればかりか城下の女性達をとらえては拷問、愛妾にしたと同じやり方で殺す。そのおそろしい光景。三島が感心したのは、おそらくこのサド侯爵、チェーザレ・ボルジアを連想させる城主の人物設定と殺戮描写だろう。

一方の富士教団の方は纐纈城とは対照的な美しく平和な世界。嫉妬に狂った兄の魔の手を逃れた庄三郎の叔父が開いたもの。そこでは信徒たちが教祖を「孔雀明王」と仰ぎ、穏やかに生活している。やがてこの嫉妬に狂った兄こそが纐纈城の城主であることが分かる。

ただ、庄三郎、甚太郎が紛れ込んだ纐纈城と富士教団が実際の世界なのか、幻なのかがは判然としない。まさに泉鏡花の『天守物語』。影響を受けたことがそこかしこにみてとれる。こういう幻想的、ファンタジー的というより怪奇の雰囲気が三島を惹き付けたのだろうと、想像できる。

作者の国枝が西洋文学の影響を受けただろうと想像できる箇所はいくつもあるけれど、その中で確信できるのは、リラダンの『未来のイヴ』。ここでは造顔師、月子を巡る物語として展開する。

富士の裾野を舞台とする壮大なスケールのこの「冒険譚」は、結末がはっきりしないまま終わっている。未完。物語を歌舞伎として整理、再構築して、上演したら、まちがいなく面白いと思うけど、差別に敏感になっている当世、いろいろさしさわりがあるかも。また、テーマのひとつになっている「残虐」をどう描くことが可能なのかという問題も浮上するかもしれない。