yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「『當麻』から『死者の書』へ」in 『演劇とは何か』(渡邊守章著、講談社学術文庫)

フランス演劇のひとであるとともに、能にも造詣の深い渡邊守章氏ならではの論考集。いろいろなところに寄稿したものを集めたもので、フランス演劇の演出家でもある彼が単なる研究者でないことがよく分かる。三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を演出され、フランスで大成功、その凱旋公演の際に客席でお見かけした。これ、素晴らしい舞台だった。

そして、『演劇とは何か』。第三部、「表象としての音楽」中の「劇場音楽のトポス」の論考が示唆に富んでいた。「世阿弥が音楽を音曲と呼んだのは、音楽が音としてではなく、なにかを表象するものとして示している」というのには、目が開かれた思いがした。歌詞という形での言葉をもたない音楽。それは西洋の音楽とは違ったもの。違った風土、そこに育った文化から出て来ているので、当然といえば当然。

そして羽生結弦さんの「SEIMEI」。演者の身体と音楽との関係に、上記の言葉としての音楽を代入する。そこに表象されるものは、いったい何か。使う音楽そのものは西洋的な旋律のもの。それを取り込みながら、羽生結弦さんの身体がいかなる「言葉」を紡ぎ出して行くのか。身体が音楽と一体になってひとつの宇宙観を表象してゆく過程を、私たちは観ている。そこに表象されるのは「鎮魂」。

この本の第五部中の一章が「『當麻』から『死者の書』へ」。折口信夫の小説『死者の書』と能の『當麻』が渡邊氏自身がプロデュースした「能ジャンクション『當麻』」として成立してゆくその流れが明らかにされていて、興味深い。中将姫が、化尼の導きにより曼荼羅を織り上げたのが本説となっている能の「當麻」。折口はそこに大津皇子を絡ませる。謀反罪で処刑された大津皇子の御霊が中将姫に憑くという筋立て。それを「語る」のは當麻語部媼。「異界とこの世界との出会う<橋>である舞台で、語り・演じられるのは、その意味で言葉による一つの楽劇である」と渡邊氏は云う。自身の舞台では序破急に則った構成とし、使う音楽は能の囃子とバッハのリュート組曲無伴奏チェロ組曲

この「能ジャンクション『當麻』」の構成と音楽が「SEIMEI」を分析する上で非常に示唆に富んでいる。